「桜島も激励して見送ってくれていますよ」
「失敗すれば帰ってこられないかもしれん」との思いで日中国交正常化交渉を決断した田中角栄首相は、昭和47(1972)年9月25日の朝8時すぎ、機上の人となった。
羽田から中国・北京へ向けて飛び立った日航特別機は、鹿児島上空で機体が盛んに揺れた。同行の大平正芳外相をはじめ、政府関係者36人の多くが緊張気味であった。田中とは向かい合わせ、大平の隣の席の二階堂進官房長官は、こうした空気を払拭しようとしてか、冒頭のように自らの選挙区上空で田中に語りかけたのだった。
しかし、張り詰めた空気の中、田中は腹をくくっていた。ブランデーの水割りを飲み、機上での改めての朝食は小さなパン4個、ステーキ、オムレツ、サラダ、フルーツの洋食をペロリとたいらげた。そして、南シナ海から中国大陸に入ると、快晴の空の下に広がる大陸を見下ろし、「やはりスケールが大きいな」「農地がよく耕してある」などと連発していた。
こうした機内での光景は、同行した記者が『田中政権・八八六日』(中野士朗・行政問題研究所)などで証言している。
また、交渉のさなかにマオタイ酒を飲みすぎて酔っぱらい、毛沢東主席との会見の場でも「ちょっとトイレをお借りしたい」とやるなど、なんとも〝豪胆〟な田中ではあった。
さて、のちに田中の首相退陣後、その意向に逆らって自らが政権取りに動く二階堂ではあったが、この日中国交正常化交渉あたりまではまったくの蜜月の仲で、「合わせ鏡」とまでいわれたように田中の意向を忠実にこなす「忠臣」であった。それは、同行記者の次のような証言でも明らかである。
巧妙なスポークスマン
「一行は北京、上海に都合6日間滞在したが、この日中国交正常化交渉の成功は、田中首相の頭の回転の速さと言うならクソ度胸、二階堂官房長官のスポークスマンとしての巧妙さによるところが大きかった。
とくに、二階堂のそれは完璧だった。田中と毛沢東主席との会見を一問一答の形で発表、毛主席のこうした席での話の内容などが具体的に伝えられたことは過去になく、中国のメディア、国民を大いに興奮させた。また、勘のよさも際立っていた」
さらに、二階堂の勘のよさについては、のちの田中政権末期に、二階堂が次のような〝提案〟をしていたとの証言もある。
「田中内閣が金脈、女性問題で揺れ始めた頃に、二階堂官房長官が言っていた。『総理はいまこそ街頭へ出て、親しく国民に問いかけ、釈明したらいいのではないか。新宿でも、錦糸町でもいいのだ』と。実行していれば、あるいはその後の田中内閣の流れは変わっていた可能性もあった。田中派内にも、こうした〝街頭集会戦略〟を支持する声は少なくなかった。しかし、警備の問題もあったうえ、それをやる前に、娘の田中真紀子の『お父さん、もう辞めて』の懇請に、田中自身が退陣を決断してしまった」(当時の田中派担当記者)
田中と二階堂の絶妙なる〝バッテリー〟は、共に佐藤(栄作)派に所属していた昭和40年6月、田中が自民党幹事長に就任し、二階堂がその下で筆頭副幹事長を務めた頃から始まる。
二階堂は鹿児島県肝属郡生まれの「薩摩っぽ」だが、後年は銀髪をキッチリ撫でつけた洗練された風貌で知られている。旧制志布志中学を卒業後、米国に渡り、カルフォルニア州のパサデナ大学、南カルフォルニア大学で学び、「マスター・オブ・アーツ」の学位を手に入れている。
帰国後は、外務省嘱託、海軍司政官になったあと、昭和21年4月に戦後初となる総選挙で初当選、日本協同党に入る。ちなみに田中は、この総選挙に立候補したが落選している。
佐藤首相からうとまれ田中に接近
その後、民主党、自由党に所属し、昭和30年11月の「保守合同」により自民党所属となる。自民党では労働政務次官、政調副会長、建設委員長、商工委員長を経て、田中との〝バッテリー〟構築ということだった。
前出の田中派担当記者は、次のような証言も残している。
「じつは、二階堂は派閥の長でもある佐藤首相からうとまれていた。ために、初入閣も昭和41年12月の北海道開発庁長官(翌年1月、科学技術庁長官兼務)という〝伴食閣僚〟だった。その後は、国際的視野を買われて国際原子力機関総会の日本政府代表になったりはしていたが、不思議に表立った役職には就いていない。佐藤との間には、こんなエピソードがある。
ある日、佐藤の車に二階堂が同乗する機会があった。車中で、どうやら『ポスト佐藤』の話が出たようだった。持論を口にする二階堂が気にくわなかったのか、佐藤は『おまえはここで降りろッ』と、渋谷あたりで〝強制下車〟を命じた。
二階堂は、次第に佐藤から距離を置くようになり、同時に田中にピッタリ寄り添う形になっていく。田中もまた、二階堂が9歳上にもかかわらず信義に厚いとして、全幅の信頼を置いていた。
そのためか、昭和47年の元旦、田中は自らの『ポスト佐藤』総裁選出馬について、一番初めに明らかにしたのが二階堂だった」
その二階堂が田中との紐帯の中で学んだのは、やはりカネの使い方の見事さであった。田中は苦労人だけに、人間は「利」で動くという属性をとことん知り抜いていた。
二階堂はそのあまりの巧みさに目を疑い、さすがに唸るしかすべがなかった。
(本文中敬称略/Part3に続く)
【小林吉弥】=早大卒。永田町取材50年のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『高度経済成長に挑んだ男たち』(ビジネス社)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。最新刊に『新・田中角栄名語録』(プレジデント社)がある。
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