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田中角栄の事件史外伝『兵隊やくざ――“田中政治の原点”型破り戦場秘話』Part10~政治評論家・小林吉弥

 田中角栄の事件史外伝『兵隊やくざ――“田中政治の原点”型破り戦場秘話』Part10~政治評論家・小林吉弥 
衆議院議員、自民党、首相=1973(昭和48)年8月5日撮影(C)共同通信社

太平洋戦争がいよいよ苛烈になり、長女・真紀子が誕生した昭和19(1944)年1月ごろになっても、内地送還で病院を転々のうえ除隊扱いとなった田中角栄に、再度の召集令状が来ることはなかった。健康を取り戻してはいたが、重篤な肺炎などにより傷痍軍人記章を与えられていたためである。

そうした中で、東京に戻ってからの事業は拡大の一途をたどり、田中にはさらに「強運」が付いて回った。

理研グループ傘下の理研ピストンリング社は、海軍に毎月数万個のピストンリングを納めていたが、軍からの突然の要請で自社の工場を朝鮮・大田へ移転させることになった。すると、田中の「田中土建工業」はグループ総帥である大河内正敏(子爵・貴族院議員)の覚えめでたく、この移転事業が回ってきたのである。

これは極めて大がかりな事業で、200台を超える機器の移動、半地下工場の建設など新たな軍需工場の完成までに、じつに延べ40万人近くの現地採用労働者が投入されることになっていた。

また、総工費は当時のカネで2400万円(現在なら200~300億円相当)、その半分近くが軍票という形で田中のもとに渡った。田中は現地で陣頭指揮を執り、これを縦横に使って大工事の完成にめどをつけたものの、その矢先で〝事件〟に遭遇したのだった。

なんと、昭和20年8月9日朝、ソ連(現・ロシア)軍が突然の越境で朝鮮に攻め入ってきたため、工事の中断を余儀なくされたのである。結局、このことが広島、長崎への原爆投下と合わせ、8月15日の終戦(玉音放送)につながることになった。

戦火にも無傷の田中土建工業

さて、工事着手金として田中の手に渡った当時の約1000万円(現在で数十億円から100億円相当)について、田中は自著『私の履歴書』(日本経済新聞社)に「(工事中断による残金のすべて)『この財産を新生朝鮮に寄付する』と宣言した」と記すが、作家・津本陽『異形の将軍』(幻冬舎文庫)には、田中が終戦の報を耳にすると素早く軍票を現金に換え、朝鮮への寄付の一方で、相当の現金を内地に持ち帰ったことをうかがわせる指摘がある。

また、立花隆『田中角栄研究・全記録』(講談社文庫)には、釜山港から青森港への帰国の途中、「海防艦三十四号」の艦中における次のようなエピソードも明かされている。

艦中で病気の幼子が息を引き取り、嘆き悲しんでいる母親のところに、ちょうど田中が通りかかった。その光景を目の当たりにした田中は、母親に突然「つらいでしょうが、元気を出しなさい。これはお子さんへのほんの供養です」と300円の現金をポケットから出し、母親に渡してやったというのである。

当時の300円は、現在ならゆうに数十万円、後年も情にもろいといわれた田中ではあったが、このときポンと母親に与えたこの金額からすれば、田中が相当の現金を持って帰国したことが想像できる、ということである。

田中は青森港で下船、ここで折から樺太引き揚げ者の第一陣とともに貨車に乗り、小雨の降る中、東京へ向かった。東京駅に到着したのは8月25日の夜明け前、駅前に広がる光景はまさに荒涼とした焼け野原で、田中は改めて愕然とした。

しかし、田中が帰宅すると、飯田橋の自宅、会社の事務所、倉庫などは、奇跡的にほぼ無傷であった。ここでも、持ち前の「強運」ぶりがうかがわれた。

フツフツと湧き上がってきた政治家への思い

無傷ゆえに田中土建工業は、進駐軍接収家屋の改装工事などが舞い込み、次から次へとフル回転で仕事を請け負うことができた。しかし、事業は順風満帆ながら、田中自身は何か物足りないものを感じていた。極寒の満州で兵隊仲間と〝盗み酒〟をやっているさなか、「俺は生きて帰れたら政治家になりてェ」と思いをぶちまけたことがあった。男として、この荒廃した社会の立て直し以上の生きがいはあるものかの思いが、フツフツと湧き上がってきたのである。

そんな折、田中土建工業を創立した昭和18年以来、田中は3人の顧問を抱えていたが、その中で当時の進歩党の幹部だった大麻唯男代議士から、こんな相談を受けたのである。

「党の総裁後継争いで、300万円が必要だ。君もいくらか出してくれんか」

田中は事業で大儲け、そのうえ朝鮮から引き揚げてくるときに持ち帰った多額の現金もある。「ええですよ」でポンと出したのが100万円、現在なら10億円近いカネであった。この大金に目を丸くした大麻は、それから半月ほどすると、今度は田中自身の衆院選立候補を打診してきたのだった。

「近々に、衆議院は解散となる。君みたいな実行力もある、頭も切れるシェイネンこそ、国政に出るべきだ。15万円(現在の1億5000万円ほど)出して黙って1カ月間、おみこしに乗っておればよろしい。当選は、請け負いましゅよ」

田中の気持ちが、グラリと動いた瞬間であった。自分が政治家向きであることは、よく分かっている。

それは、上官も舌を巻いた兵隊時代の環境に対する適応能力の高さ、ある種の要領のよさ、時代の動きに敏感な嗅覚、反骨精神も根強いということであり、加えて人は利によって動くことを熟知しており、それらが大きく役立ちそうだとの自負である。

田中角栄、27歳の年の瀬。ここで改めて「戦争」に区切りをつけ、第2の人生に懸けることを決断することになるのだった。

(本文中敬称略/次号からは新章「忠臣・二階堂の乱」が始まります)

【小林吉弥】=早大卒。永田町取材50年のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『高度経済成長に挑んだ男たち』(ビジネス社)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。最新刊に『新・田中角栄名語録』(プレジデント社)がある。

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