【秀長「謎の病死」の闇】本当に病気だったのか? 早すぎる退場に囁かれる「毒殺説」と、得をした"真の黒幕"の正体


容疑者②:淀殿(茶々)
浅井長政とお市の方の娘である淀殿の悲願は、滅ぼされた浅井家の再興だったとする説がある。

ただ、秀吉に次ぐ実力者・秀長が存命である限り、豊臣政権に浅井家の再興を持ち込む余地はなかった。

実際、秀長の死後に淀殿の側近・大野治長は急速に出世し、豊臣政権の中枢に食い込んでいく。「秀長亡き後に得をした人物」として、淀殿周辺の動きは見逃せない。

容疑者③:反利休派の武断派大名たち
生前の秀長は「内々の儀は利休に、公儀の事は秀長に」と語り、千利休と二人三脚で政権の穏健路線を支えていた。

両者を疎ましく思っていた武断派にとって、秀長の死は「千利休孤立」という二段構えの利益をもたらした。

ちなみに、武断派とは豊臣秀吉の配下で軍務を担った武将たち。加藤清正や福島正則、黒田長政、細川忠興、浅野幸長などがその中心人物だったが、秀長死去の約5週間後、利休は切腹を命じられる。この連鎖は、果たして偶然だったのか。

「病状が回復しても、また悪化した」という不自然な経緯

毒殺説を完全に否定できない理由がもう一つある。それが秀長の病状推移の「不規則さ」だ。

『多聞院日記』の記録を追うと、秀長の体調は「回復→再発→回復→再発」を繰り返している。

1590年4月には一時回復して京都から大和に戻り、5月には大政所と東大寺見物に同行。しかし9月末に再び悪化し、10月には「深刻な状態」。その後また回復するが、11月を境に再び悪化――この一進一退のパターンは、慢性疾患にも見られるが、間欠的に毒を盛られた場合の経緯とも一致しうると指摘する向きもある。

もちろん、こうした見解は状況証拠にもならないものであり断定は慎むべきだが、その不可解さがいまもって解明されていないのも事実なのだ。

「黒幕」より怖い真実——秀長を殺したのは「豊臣政権」

だが、ここまで検証を重ねて見えてくる最も恐ろしい「答え」は、実は毒殺説とは別のところにある。

秀長死去の翌年には朝鮮出兵を開始し、この外征の強行が結果として政権崩壊の端緒となっていった。利休の切腹、秀次一族の処刑、朝鮮出兵の暴走――これらはすべて秀長の死後に起きているのだ。

その事実は、豊臣政権に常に構造的な脆弱性が横たわっていたことを表しているだろう。「毒殺説」や「黒幕は誰か」という問いに答えを出すほどの史料は存在しないが、仮にそこに付け込む人物がいなかったとしても、いずれ豊臣家は大きな代償を払う可能性を秘めていたわけだ。

その終焉の模様を大河ドラマがどう描いていくのか。後半戦の『豊臣兄弟!』が見ものである。

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