仲良し兄弟の裏側にあった?「豊臣家・血の粛清」の戦慄【豊臣兄弟!トリビア】

仲野太賀(C)週刊実話Web

大河ドラマ『豊臣兄弟!』(NHK・毎週日曜夜8時)が好調だ。主演の仲野太賀演じる弟・豊臣秀長と、池松壮亮演じる兄・豊臣秀吉が貧しい農家から天下統一へとひた走る"サクセスストーリー"は、視聴者の胸を毎週熱くさせている。

だが、歴史の表舞台に隠れた「豊臣家の裏」には、実は現代人が血の気を失うような粛清の連鎖が横たわっていたのである。

「兄弟の防波堤」秀長が死に歯車が狂い始めた

秀吉政権が盤石であった時代、「内々の儀は利休に、公儀の事は秀長に」という言葉が大名たちの間に広まっていた。

千利休は宮廷政治の裏を、豊臣秀長は表の政務を担い、それぞれ秀吉の“暴走”を食い止める役割を担っていたのだ。

ところが1591年(天正19年)1月22日、その秀長が大和郡山城で病死する。享年52。「秀長が長生きしていれば豊臣家の天下は安泰だった」と後世まで語り継がれた補佐役の死は、歴史の歯車を狂わせる大きな起点となった。

茶聖・千利休を自害に追い込んだ秀吉の「恐怖」

「秀長の死から約1カ月後という急展開で、茶の湯の神様・千利休が秀吉から突然切腹を命じられた(1591年2月28日没、享年70)。それの理由は諸説あるが、有力なのは後ろ盾の秀長を失った隙をついた反利休派の讒言(ざんげん)説で、利休が秀吉の朝鮮出兵構想に真っ向から反対したからと言われている。また、一方では秀吉が利休の娘を側室にと望んだが拒絶されたという説もある。真相は今も藪の中だが、“人たらし”と呼ばれた秀吉が最大の腹心を失ったその直後、最側近の一人を抹殺した事実は重い」(戦国史研究者)

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