父は田中角栄の盟友、本人は超生真面目…石破茂をつくった「石破家」と“角栄DNA”【歴代総理とっておきの話】



票にならない話でも全力…石破茂の“不器用な選挙”

慶應義塾大学法学部を卒業し、勤めていた三井銀行を退職、永田町の砂防会館内にあった木曜クラブで事務局員稼業を3年半ほど経験した石破は、昭和61(1986)年7月、中曽根康弘政権下で行われた衆参ダブル選挙に鳥取全県区(中選挙区時代)から出馬、初当選を飾った。

このときのエピソードがある。

「中選挙区だから複数当選となるが、すでに田中派からの候補は1人決まっており、同じ派閥から2人を出馬させるわけにはいかない。そこで田中は、石破を話のできる“ミッチー”こと渡辺美智雄(当時は中曽根派の幹部)に預け、出馬させている」

生真面目な石破は、選挙期間中も田中の言いつけを守り、辻立ちの演説にも精を出していたが、イノシシかタヌキくらいしか出ない里山深くで、票にならない朝鮮半島の危機について懸命にしゃべっていたこともある。たまに立ち止まって聞く人はいるんだが、さすがに話が面白くないので、すぐその場から離れてしまう人が多かった。結局、鳥取での石破二朗の名声に助けられ、からくも当選を果たしたということです。

とにかく何事も不器用にして几帳面な石破だが、のちに首相になっても、この姿勢が少しも変わっていないことを証明した」(政治部デスク)

几帳面さでいえば、石破は人前に出るときに必ずネクタイを締めてスーツを着用し、ラフな格好で歩いている石破の姿を見た人は、選挙区の鳥取でもまずいないそうなのだ。