『豊臣兄弟!』では描けない裏歴史! 秀吉の「異常な女癖」と調整役・秀長が奔走した「夜の外交工作」

「人妻狩り」の火消しに走った秀長の「夜の外交」

ここで注目すべきは、弟・秀長の存在だ。ドラマでは温厚な常識人として描かれる秀長だが、その実態は「豊臣政権最強を誇るリスクマネジメント担当者」だった。

秀吉の女癖は、時に政権を揺るがす危機を招いた。有名なのが、有力大名や公家の妻女に対する「横恋慕」だ。秀吉が気に入った女性がいれば、たとえ既婚者であっても強引に城へ召し出すことがあった。当然、夫である大名たちの怒りは凄まじい。

「この時に、間に入って怒りを鎮めたのが秀長でした。秀長は兄の暴挙を謝罪し、時には自らの領地や利権を密かに譲渡することで、大名たちの離反を防いだという。秀長が治めた大和郡山(奈良県)には、こうした“夜のトラブル”の処理に端を発するとも伝わる秘密裏の交渉の痕跡が残されていたとも言われる。秀長という“クッション”がなければ、豊臣政権はもっと早く内部崩壊していたに違いないのです」(歴史専門誌編集者)

秀長の私生活と、崩れたパワーバランス

一方、秀長自身は、正室・慈雲院との仲は睦まじかったとされる。史料には複数の女性との間に子をもうけた記録も残されているが、兄・秀吉の際限ない「女性収集」とは明らかに異なる姿勢を示していた。この兄弟の気質の違いこそが、天下統一を成し遂げた原動力の一つとも言えるだろう。

しかし、天正19年(1591年)に秀長が病没すると、歯止めを失った秀吉はさらに暴走する。秀長の後を追うように千利休を自害に追い込み、ついには甥の秀次一族を惨殺する「秀次事件」を引き起こす。この際も、秀次の側室や娘たちが三条河原で処刑されたが、もし秀長が生きていれば、これほど凄惨な一族の粛清は回避されていたはずだ。

戦国時代の「夜の営み」は、単なる享楽ではない。血縁を広げ、敵を懐柔し、生き残るための壮絶な「政治工作」そのものだった。ドラマの美しい兄弟愛の裏側には、権力者のどろりとした執着と、それを必死に支えた「最強の弟」の苦悩が隠されているのである。

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