【豊臣兄弟!トリビア】秀吉も驚愕! 豊臣秀長が石垣に刻んだ「豊臣支配」の“恐るべき演出”

石垣に刻まれた「知恵」と「覚悟」

さかさ地蔵

また、歴史作家はこう分析する。

「秀長は、兄・秀吉とは対照的に極めて冷徹なリアリストだった。聖域の象徴をただの石材として扱うことで、大和の民衆に対し、神仏への過度な依存を断ち切らせる狙いがあったのだろう。つまり、大和・紀伊・和泉あわせて百万石の太守となった秀長の覚悟と、支配者としての胆力がこの石垣には凝縮されているのです」

ちなみに、秀長の豪胆さを伝える行いはこれだけではない。かつて平城京の正門として威容を誇った「羅城門」の巨大な礎石までも、天守台の石垣に組み込ませたという。

古都の栄華の象徴さえも、豊臣政権の秩序の一部に取り込む。この徹底した合理主義こそが、秀長を“日本一の補佐役”たらしめた源泉だった。

だが、秀長は決して冷酷なだけの独裁者ではなかった。

居城の改修で圧倒的な武威と合理性を示す一方で、内政では領地内の商業保護政策を打ち出し、戦火で疲弊した民衆を慈しんだ。この“飴と鞭”の使い分けこそが、一筋縄ではいかない大和の国衆を短期間で心服させたのである。

「石垣は威圧、町造りは慈愛。このハイブリッドな統治スタイルこそが秀長の真骨頂。彼はまさに天下の副総理に相応しい、稀代のマルチタスクプレイヤーだったのです」(前出・歴史評論家)

大和郡山城の石垣――それは、豊臣の天下を盤石にするため泥を被り続けた豊臣秀長の、「知恵」と「覚悟」が刻まれた遺物なのである。