「ユニクロの国民服化」は社会主義化の象徴なのか?

画像はAIで生成したイメージ
ユニクロは、気づけば「誰が着ても問題のない服」になった。老若男女、職業、階層を問わず着用でき、それを着ていることで評価が上下することもほとんどない。

この現象はしばしば(ごく一部で)「日本社会が画一化している証拠」「個性が失われた結果」とも語られる。

では本当に、ユニクロの国民服化は社会主義化の兆候なのだろうか。

社会主義的なのは“統制”ではなく“安心”

まず確認すべきは、社会主義の本質が「全員同じ服を着ること」ではない点だ。

重要なのは、「差が生まれないこと」「競争しなくていいこと」「失敗が起きにくいこと」である。

ユニクロが提供しているのは、国家による統制ではなく、市場を通じて自発的に選ばれる平等感。これは社会主義というより、「競争から一時的に降りたい」という欲望の具現化に近い。

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ユニクロは“自己表現の放棄”を売った

ユニクロが革命的だったのは、「おしゃれ」を民主化したからではない。

むしろ「服で何かを語らなくていい」、「自分を説明しなくていい」という、自己表現の放棄を肯定したことにある。

これは社会主義的な思想ではなく、高度に疲弊した資本主義社会が自然に生み出した防衛反応とも言えるだろう。

なぜ“国家”ではなく“企業”が国民服を作れたのか

かつて社会主義国家では、制服や作業着が思想の象徴だった。だがユニクロは、国家ではなく企業がこの役割を担った。

理由は明確で、国家=センスがない、更新能力がない、「ちょうどいい無難さ」を設計できないという3点が挙げられる。

市場競争の中で磨かれた企業だけが「誰も怒らせない最適解」を作れた。ここにあるのは社会主義化ではなく、管理された自由だ。

国民服化は「平等」ではなく「透明化」

ユニクロを着ている人は、平等になったわけではない。むしろ、服から階層が読み取れなくなったため、価値判断が不可視化されたと言える。

これは平等ではなく、差異が見えなくなった状態。社会主義が目指したのは分配の平等だが、ユニクロが実現したのは評価の透明化である。

ユニクロの国民服化は、社会主義への回帰ではなく、「競争したくない」「失敗したくない」「目立ちたくない」という社会主義的欲望を、資本主義が商品として完璧に処理した結果である。

国家が強制しなくても、人々は自ら「無難」を選ぶようだ。