紅白はなぜ失速し、M-1だけが“年末の祭り”であり続けるのか

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紅白歌合戦は再び“国民的番組”になれるのだろうか。

紅白と同じく年末に放送されるM-1グランプリは、今なお大きな話題を呼び、ソーシャルメディアを中心に“祭り”として成立している。

なぜ紅白は失速し、M-1だけが生き残っているのか。結論から言えば、これは番組の質や出演者の問題ではない。

“国民的番組”という概念そのものが、すでに成立しなくなっていることが最大の理由だ。

紅白が「国民的番組」だった本当の理由

紅白歌合戦が圧倒的な存在感を持っていた時代、そこには暗黙の前提があった。大晦日は家族が同じ空間に集まり、テレビは一家に一台、チャンネルの選択肢も少ない。「年越しは紅白を見るもの」という社会的合意が存在していた。

重要なのは、紅白が「面白いから見られていた番組」ではなかった点だ。紅白は、見るかどうかを選べないインフラであり、番組というより、年中行事であり、文化装置だったのである。

しかし現在、ご存じの通り、その前提は完全に崩れている。

「国民」がいなくなった時代

今の社会では、視聴者は年齢や趣味、価値観、さらにはAIのアルゴリズムによって細かく分断されている。

「今年を代表するヒット曲」「みんなが知っているアーティスト」は、もはや成立しない。

紅白が「国民を代表できなくなった」のではなく、代表されるべき“国民”という単位そのものが消滅したということだ。

この状況で紅白が若者向けに舵を切れば高齢層が離れ、王道に戻れば若年層が見ない。

結果として紅白は、誰にとっても「自分の番組ではない」存在になってしまった。

M-1が“祭り”であり続ける理由

一方、M-1グランプリはなぜ今も強いのか。その理由はシンプルである。

紅白が「今年を代表する歌手」を選ぼうとする番組であるのに対して、M-1は「その日の勝者」を決める番組だからだ。

M-1は、時代を代表している必要も、知名度がある必要もない。その瞬間に、一番ウケた漫才が勝つというシンプルな構造。なので視聴者は「納得できるかどうか」で議論できる。

さらに、紅白が“選ばれる番組”であるのに対し、M-1は“参加できる番組”と言えるだろう。

参加資格さえ満たせば、無名の芸人でも理論上は決勝に進める。この開かれた構造が、視聴者を単なる傍観者ではなく“当事者”に変える。

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紅白は「完成品」、M-1は「生成過程」

紅白に並ぶのは、すでに完成されたスターたちである。視聴者は、その成果を評価することしかできない。

対してM-1は、売れるかどうか分からない芸人が、人生を変えるかもしれない瞬間を見せる。

視聴者は“結果”ではなく、“過程”に立ち会う。

紅白は文化の「調停者」であり、対立を避け、摩擦を減らし、全方位に配慮する。しかし、aespaの炎上を見ればわかる通り、分断が進んだ社会では、調停はもはや機能しない。

その点はM-1と大きく違う。M-1は「裁判所」であり点数が出て、順位がつく。不公平だと感じても、議論が割れても、決定だけは下される。

この残酷さこそが、現代の“祭り”を成立させている。

テレビが終わったから、ではない

「テレビが終わったから紅白も終わった」という意見も多い。しかし、正確には「テレビは終わったのではなく、社会の中心ではなくなった」と言うべきだろう。

M-1はテレビを中心としながら、切り抜き動画や点数、審査への不満がソーシャルメディアで再燃し、放送後も生き続ける構造を持っている。

一方で紅白は、放送が終わった瞬間に物語も終わる。

紅白歌合戦は、戦後日本における文化の統合装置だった。M-1グランプリは、分断された社会に適応した競争装置である。

統合すべき「国民」が存在しない以上、紅白が再び国民的番組になることはない。しかし、それは敗北ではない。紅白が生き残るとすれば、国民を代表しようとすることをやめ、分断された文化を「並べて記録する儀式」へと役割を変えるしかない。

かつて紅白は「みんなで見る番組」だった。今のM-1は「みんなで揉める番組」である。

そして残念ながら、現代社会に残ったのは後者だった。