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「もう一つの行政機構」田中角栄の事件史外伝『越山会―最強組織はどうつくられたか』Part4~政治評論家・小林吉弥

田中角栄の事件史外伝『越山会―最強組織はどうつくられたか』 
衆議院議員、自民党、首相=1973(昭和48)年8月5日撮影(C)共同通信社

政治家の後援会として最盛期、じつに会員数9万人余り、唯一無二、最強にして最大の「越山会」が成り立っていた要因は、組織としての地元からの要求の吸い上げ、すなわち陳情に対する処理能力と、それを可能にするための予算、すなわち田中角栄による公共事業費の獲得ということにあった。

田中への陳情ルートは、よく言われる東京・目白の田中邸における毎日の〝陳情受け付け〟が一つ、もう一つが翌年の予算について大蔵省(現・財務省)原案が出る前の7月から8月にかけて、田中側が〈新潟3区〉へ出向き、当時の33市町村をくまなくまわり、自治体の首長、地方議員、土建業者などの代表から陳情を受けるという形であった。

これは一般に「越山会査定」と呼ばれる一方、地元では越山会による「ご用聞き」との声もあった。どちらかと言うと、前者に比べ後者は、陳情の金額が時に億単位になるような、予算の大きいものが多かった。

この「越山会査定」の総括責任者が、普段は目白の田中邸内の事務所を取り仕切り、田中から全幅の信頼を得ていた秘書の山田泰司であった。越山会の「江戸家老」とも呼ばれていた山田を、田中はこう言って評価していた。

「あの男は札束の中に入れておいても、1枚たりとも抜き取るような男ではない」

田中秘書団の中で“異色”の存在

組織というものを維持し、さらに拡大することは、リーダー一人の能力だけでは果たせない。徹底的に黒子役をまっとうし、リーダーの「名代」としての役割りが務まる優秀な人物が不可欠である。最大141人を誇った田中派、そしてこの越山会という最強組織もまた、こうした多くの人材によって支えられたということである。

その山田は東京・文京区の畳職人の家に生まれ、地方、とりわけ新潟県出身者が多い田中秘書団の中では〝異色〟の存在とも言えた。

中央大学法科を出たあと、田中の妻・はなの父親と自分の父親が知り合いだった関係で、はなの父親が経営していた土建業「坂本組」に出入りするようになり、その後、はなが田中と結婚、田中が「田中土建工業」を立ち上げるに及んで、ここに入社した。田中とは、それ以来の切っても切れない関係となっている。

やがて、田中が国政入りを果たし、昭和32(1957)年7月、39歳で郵政大臣になったとき、それまで秘書官として「大物」と評判だった曳田照治が、その年の12月に病死したのを機に、郵政大臣秘書官も務めるようになった。

また、田中の信頼度の高さから、「田中ファミリー企業」である「新星企業」の代表取締役も務め、のちの金脈問題ではマスコミにも取り上げられている。

その山田の陳情受け付け風景を、長岡越山会の幹部2人が、筆者にこう明かしてくれたことがある。

「当初は田中先生自身が陳情を受け付けていたが、郵政大臣になってやめ、山田秘書がやるようになった。山田秘書は選挙区内のことなら、『アリの穴、モグラの穴まで、すべて知っている』と言われるほどだった。

陳情のやり方は、まず市町村長が陳情要望書を机の前に座った山田秘書に、うやうやしく差し出すことから始まる。そのうえで、市町村長は大ボラ、小ボラを合わせ、山田秘書に熱弁を振るうのだ。それを、その地区の越山会幹部が見守る形になる。まァ、しっかり要望しているかの〝監視〟ということだ。

一方で、陳情が蹴られようものなら、あとで越山会幹部から『隣の村長は道路を取ったのに、おらっちのほうは負けた』と吹聴して回られ、ヤツはクズということで、次の選挙では越山会で力を借す者はいなくなるという寸法だ。ために、彼らは目の色を変えて山田秘書にすがることになる。

山田秘書の権限は、大したものだった。予算金額をその場で明示することのほか、合わせて工区、工期までその場で決めてしまうことがあった。工区については、なるべく多くの土建業者に振り分け、細分化するのが特徴で、どうやら〝敵をできるだけ減らす〟ということのようだった。

受付には、普段は田中批判をブチ上げていた革新の連中も出席していた。これに出席しないと、道路1本、橋1本も造れんので、地元民の不信を買うからだ。そんなわけで、33市町村の首長の90%近くが、越山会となんらかの気脈を通じておった」

「田中邸はもう一つの行政機構」

こうして山田が受け付けた査定内容は、最終的に東京に持ち帰られ、田中のチェックが入る。山田の一存で決められないような予算の大きいものについては、大蔵省原案が固まる前、田中邸に関係省庁の局長と実務担当者が呼ばれ、内密に〝すり合わせ〟が行われることになる。

そうした田中邸での風景を、のちに田中のある秘書がこう言っていた。

「すり合わせで、局長が首をかしげたりすることがあると、オヤジさん(田中)の一喝が飛ぶ。『君、そのくらいのことはなんとかなるだろうッ』と。結局、よほどの〝無理筋〟でない限り、山田秘書による査定が通る仕組みになっていたわけです。

また、越山会とは別に、新潟県から直接上がってくる各種の予算要求も同じで、オヤジさんはこうした形で同様に通していた。当時、『田中邸がもう一つの行政機構』と揶揄されたゆえんでもあった」

こうして田中が〈新潟3区〉に誘致した公共事業費は、越山会系土建業者間の〝あうんの呼吸〟で、皆が潤うように配分されていた。もとより「談合」などという言葉を使う業者は、一人もいなかったのだった。

(本文中敬称略/Part5に続く)

【小林吉弥】=早大卒。永田町取材50年のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『高度経済成長に挑んだ男たち』(ビジネス社)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。最新刊に『新・田中角栄名語録』(プレジデント社)がある。