地獄の戦国籠城戦! 信長が「2万人焼殺」、秀吉が「人肉を食わせた」恐怖の戦術

秀吉の“奇策”が地獄を生んだ

●鳥取城の戦い(1581年/因幡国)
因幡一帯を版図に組み込んだ毛利家にとって、鳥取城は中央の織田家に対する最前線の拠点で、ここに重臣の吉川経家を入れて徹底抗戦の構えを見せていた。

毛利家攻略を命じられた織田軍の豊臣秀吉は、前年に播磨の三木城で兵糧攻めを成功させていたこともあり、この鳥取城にも同様の戦法を実施。商人に付近の米を高値で買い占めさせる一方、周辺の農民を城へ追いやり、河川や海上を封鎖して毛利家からの兵糧運搬を阻止させた。

すると、たった数週間で城内は飢餓状態に陥り、家畜や穀物は食い尽くされて餓死者が続出。ついには死者の肉を食らう者まで現れ、城内は阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。

これを見た城主の経家は自刃と引き換えに開城を決意。このあまりにもむごい籠城戦は、「鳥取城の渇(かつ)え殺し」といわれている。

●志賀城の戦い(戦い1546年/信濃国)
甲斐や上州と国境を接する信濃佐久郡の完全制圧を目指す武田晴信(のちの信玄)は、抵抗する笠原清繁らが守る志賀城を攻略すべく出陣。志賀城が落ちては危険とみた関東管領・上杉憲政は、上州から碓氷峠を越えて駆け付けたが、武田家の重臣である板垣信方、甘利虎泰、横田高松らによって小田井原で壊滅させられた。

晴信は孤立した志賀城の周囲に討ち取った首級3000ほどを並べ、敵軍の戦意低下を画策。救援の望みが絶たれた城兵の士気は大きく衰え、そこへ晴信が総攻めを仕掛けると、志賀城はようやく陥落した。

これによって城主の清繁ら城兵300あまりが討ち死に、ほかに生け捕りとなった男女は奴隷労働者として、甲斐の黒川金山などへ売り飛ばされた。

週刊実話増刊『禁断の戦国史』より一部抜粋