【戦後80年】「進め一億火の玉だ」本当にあった日本軍“人命度外視の特攻兵器”の数々

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「進め一億火の玉だ」

このフレーズは太平洋戦争時に存在した、政党『大政翼賛会』が掲げたスローガン。日米開戦の翌年にあたる1942年(昭和17年)に同じタイトルの軍歌がキングレコードから発売され大流行したが、大戦末期にはこれが戦局を覆す特攻精神と結びつき「一億総特攻」なる言葉が叫ばれることとなった。

だが、このとき軍部が繰り広げた戦法は、まさに“玉砕”ともいえる無謀な代物だった。人命を度外視した戦術、兵器の開発は止めようのなかった“悲劇”と言わざるを得ないだろう。

爆薬を背負い戦車に飛び込む攻撃も

太平洋戦争末期、兵力や物資が欠乏し、劣勢に立たされた日本軍は、戦局を打破すべく決死の体当たり攻撃を打ち出す。

この戦法を実行する部隊は特別攻撃隊(特攻隊)と呼ばれ、空中、水中を問わず数々の特攻兵器が開発された。

最も著名なのが、爆弾を積載した航空機で敵艦に体当たりする海軍の「神風特別攻撃隊」であろう。

1944年(昭和19年)10月25日、現地で簡単な改造を施した零戦5機が、初めて特攻隊として敵艦に突入した。

当初は通常の軍用航空機(戦闘機、攻撃機、爆撃機など)に爆弾を装備していたが、戦局が悪化して資源不足が顕著になると、兵器自体が爆弾、砲弾となる特攻兵器が次々と生み出された。

海軍は九三式魚雷の炸薬量を増大させ、操縦席を設置した人間魚雷「回天」や、小型のベニヤ板製モーターボートに炸薬を積み、搭乗員が乗り込んで操縦する特攻艇「震洋」を開発。

さらに、陸軍の小型肉薄攻撃艇「マルレ艇」や、爆撃機から発射する体当たり爆弾「桜弾」が実戦に投入された。

いよいよ本土決戦が迫り“一億総特攻”が叫ばれるようになると、潜水服を着て海底に潜み、敵の上陸用船艇に棒付き機雷を突き上げる「伏竜(ふくりゅう)」や、兵士が爆薬を背負って戦車に飛び込む肉迫攻撃などが考案された。

一説によると、女装して米軍士官に接近し、自爆する「女装自爆作戦」も検討されたというが、さすがに「無様な姿で死にたくない」と猛反対が出て、却下されたという。

戦時下日本のリアル』第7章「軍人たちの生活」より一部抜粋