【戦後80年】闇市で1杯10円の“残飯シチュー”が大人気に 戦時中以上に悲惨だった終戦後の食糧事情

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今年は終戦から80年目の年。すべてが疲弊した終戦時に庶民が最も渇望したのが食料だった。
戦時中はイモの栽培が推奨され、住宅地の庭などでも栽培されていたが、戦争末期に東京をはじめとする都市部への空襲が相次ぎ焼け野原に。
さらに終戦を迎えると、食糧事情はさらに悪化し、食べ物を求めて「闇市」に足を運ぶ人々も多かったという。

東京の闇市就労人口は8万人

空襲の心配から解放されたとはいえ、瓦礫の中での戦後の暮らしは、戦時中以上に悲惨なものだった。

食べ物といえば相変わらずイモやカボチャばかりで、食糧事情は一向に改善される様子がない。

物資統制と激しいインフレにより、1945年(昭和20年)11月の配給米の公定価格は10キロ6円だったが、闇米の価格は1.5キロ120円前後と、実に130倍以上まで高騰していた。

しかし、それでも人々は生きるため、闇市で米を買うしかなかった。

戦後、焼け跡に出現した闇市とは、食糧難、物資不足の時代に、政府の統制を無視して設けられた非合法な市場のことで、公的な流通経路を通さないため、闇物資と呼ばれるものが取引されていた。

手持ちの家財道具や衣料品を食糧と物々交換…。皮をはいで日々をしのぐような“タケノコ生活”の始まりである。

1945年9月の調査によれば、東京の闇市では約8万人が働いており、その内訳は失業者が5割と最も多く、次いで露天商人3割、罹災商人2割だった。

そんな闇市名物として話題になったのが、進駐軍の食堂から出た残飯を非正規のルートから仕入れ、ドラム缶や大鍋で煮込んだ“残飯シチュー”である。

残飯をぶち込んで塩やカレー粉で味を付けただけの、シチューとは名ばかりの代物だが、1杯10円で飛ぶように売れたという。

味については評価が分かれるが、衛生など気にしていられない日常だったのだ。

戦時下日本のリアル』第1章「戦時下の食生活」より一部抜粋