なぜ櫻坂46はロッキン不出場なのか? ポスト邦ロック時代の“かわいい”と“アルゴリズム”

櫻坂46の森田ひかる、田村保乃 (C)週刊実話Web
櫻坂46が9月13~15日、20~21日に開催されるROCK IN JAPAN FESTIVAL(ロッキン)に参加しないことが判明した。 

ロッキンは5月28日に追加出演アーティストを発表。新たに36組が加わり、合計115組のアーティストがフェスに出場する。 

日本最大級のフェスであるロッキンだが、櫻坂46は前身グループ欅坂46時代からの常連。2017年から2024年まで(2020年と2021年はコロナで中止)連続出場していた。 

櫻坂46ファンにとって夏の恒例行事だっただけに、落胆の声が広がっているのは言うまでもない。 

なぜこのタイミングで、櫻坂46はロッキンへ出場しないのだろうか。 

「邦ロック的公共圏」の終焉 

そもそも2000年に始まったロッキンは、国内のロック音楽、いわゆる「邦ロック」カルチャーの牙城であり、「ロキノン文化圏」=音楽的にも思想的にも中産階級的・非政治的であることが美徳とされた「ゆるい共同体」の象徴だった。 

そこにアイドルを導入する試みは、2010年代以降から徐々に進み、Perfume、きゃりーぱみゅぱみゅ、ももいろクローバーZらが市民権を得ていたが、それはあくまで「ロックフェスのルールに従える限り」であり、「異物の順化」だったとも言える。 

しかし2025年のラインナップを見ると、もはや「邦ロックの共通言語」は解体され、ポップカルチャーの多声性がそのまま露出している。 

これはある意味で、「ロッキン=共同体」の解体を意味しており、櫻坂46のような“旧来型アイドル”がそこから外れるのは、自然な帰結なのかもしれない。 

「可愛さ」の再政治化 

2025年のロッキンに出演するガールグループのHANA、ME:I、ILLIT、IS:SUE、IVE、NiziU、CUTIE STREETらの共通点は「K-POP的な洗練さ」と「TikTok的ヴァイラル性」、「かわいさの設計化(=プロダクト志向)」である。 

ここで興味深いのは、かつてのアイドルが持っていた「素朴さ」や「成長物語」が、いまや完全に商品設計に内在化された魅力装置になっていること。 

現代において「かわいい」は偶発性ではなく、戦略的に「作る」ものになっている。 

この「プロダクトとしての可愛さ」の設計母体こそ、「K-POPエッセンスを持つガールグループ群」であり、市民的な自己形成(アイドルの成長)ではなく、消費者的快楽(ファンの選別)の場として機能する。 

こうした構造に対して、櫻坂46(乃木坂46に代表される“清楚”と“文学性”を継承する旧制アイドル像)は、すでに古いと見なされつつあるのかもしれない。 

「物語」から「アルゴリズム」へ 

ロッキンが2025年から9月開催となったことは、気候的配慮だけでなく、「TikTokカルチャーのサイクル」に適応するという側面も考えられる。 

もはやフェスは「いかに“映える”か」が重要であり、音楽そのものの深度よりも、情報的即効性と拡散性が重視される場となっている。 

このような環境下では、櫻坂46のように「楽曲の構造性」や「パフォーマンスの文脈性」を武器にしていたグループは、逆に「わかりにくい」「地味」と映るリスクが高くなる。 

対して、ILLITやME:Iのような“見ればすぐわかる可愛さ”や“即引用可能な振り付け”を持つグループが圧倒的に有利になっていく。 

つまり、「物語を読む力」から「アルゴリズムに乗る力」への転換が起きており、フェスそのものの意味変容でもある。 

櫻坂46不出場は「抵抗」か「断絶」か? 

ロッキンはすでに“音楽文化の共有空間”ではなく“SNS拡散戦略のハブ”と化した。

それは「共同体の音楽」から「拡散の音楽」への断絶線上にあり、「古典的アイドル像」の終焉に繋がるかもしれない。

ロッキンという“場”の変容は、ポスト邦ロック的フェスの姿を映す鏡である。

言い換えれば、櫻坂46の不出場は、何かに「抗った」のではなく、何かから「取り残された」のかもしれない。

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