アントニオ猪木“新宿伊勢丹襲撃事件”の真相 実の弟が証言「本当の狂気があったのはシンではなく兄貴だった」

『兄 私だけが知るアントニオ猪木』猪木啓介 講談社/1,800円(本体価格)
著者:猪木啓介(いのき・けいすけ)
1948年、猪木家の末弟として神奈川県横浜市に生まれる。’57年、一家でブラジルに移民し5歳上の兄・寛至(アントニオ猪木)らと農園労働に従事。’71年に帰国し、翌年旗揚げされた新日本プロレスに入社。闘病生活を送ったアントニオ猪木の晩年を支え、最期を看取った。

「物静かで内向的、引っ込み思案な性格でした」

――子供時代、猪木さんはどのような少年でしたか?
猪木「中学生のとき、すでに180センチ以上の身長がありましたが、体の大きさ以外で目立つものはなく、物静かで内向的、引っ込み思案な性格でした。
他の兄貴たちからは『ドンカン』(ドンくさい寛至)などと呼ばれていて、体が大きなことに対するコンプレックスも少なからずあったと思います。小学生時代にテレビのプロレス中継に熱中し、ブラジルに移住する前にはすでに『プロレスラーになる』という夢を抱いていました」

――「新宿伊勢丹襲撃事件」には、意外な「裏」があったそうですね。
猪木「当日は結婚式を控えていた私のために、倍賞美津子さんが日用品を買ってくれるというので、3人で伊勢丹に出掛けました。買い物後、タクシーに乗り込もうとしたところ、当時売り出し中の悪役タイガー・ジェット・シンとビル・ホワイト、ジャック・ルージョーに路上で襲われました。
この一件は後年、シンの売り出しと話題作りが狙いだったといわれるようになりますが、私は真相を兄貴から聞いたことはありません。当時の新日本としては、シンを『インドの狂虎』として売り出したかった。しかし白昼の路上で警察をも欺く仕掛けを打ったわけですから、本当の狂気があったのはシンではなく兄貴だったということでしょう」

後妻問題も人騒がせな兄貴の人生の一部

――4人の妻と波乱の人生を送った猪木さんですが、啓介さんにとって「決して許すことのできない女性」もいたそうですね。
猪木「最後の妻となった橋本田鶴子さんとの確執は、私や他の兄弟、娘の寛子さん、兄貴の孫たちにとって大変な試練となりました。橋本さんの最大の罪は、多くの人が宝物にしている生前のアントニオ猪木との思い出に泥を塗ったことです。
ただ、スターの晩年にはこうした女性問題が往々に付きまとうものです。今となっては、それも人騒がせな兄貴の人生の一部だったのかなと思っています」

――啓介さんにとってアントニオ猪木とはどんな人物だったのでしょうか?
猪木「私にとって兄貴は人生の教師です。この世に完璧な人間は存在しないということを、自らの生きざまをもって教えてくれました。プロレスラーになる、政治家になるという自分の夢を、自ら道を切り開くことで実現させました。
プロレスラーには強さが必要なんだという哲学を実践し、それを思想の領域に高めました。今は感謝の思いしかありません」

聞き手/程原ケン
「週刊実話」5月1日号より

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