広末涼子、ダウンタウン、石橋貴明、中居正広の退場で「平成」が終わった “元号7年目”で変化する時代の空気

広末涼子 (C)週刊実話Web
広末涼子の逮捕が連日ニュースを賑わせている。広末のほか、ダウンタウン、石橋貴明、中居正広といった平成の顔たちが表舞台から姿を消しつつある今、「平成」という時代そのものが、ようやく終焉するのかもしれない。 

広末は清純派アイドルの象徴であり、1990年代の青春そのもの。ダウンタウンはお笑いの王様として、巨大メディア(テレビ)の中心に君臨。石橋はバブルの残り香とともに豪快な笑いを届けた。中居はSMAPの中心として、平成ジャニーズを体現しながら、MCという領域でも絶対的な存在となっていく。 

退場という言葉が意味するのは、単なる有名人の引退ではない。それ以上に、彼らを支えていた時代の空気、そしてその空気を形づくっていたメディアと技術の構造自体が、大きく変わったということだ。 

「平成の空気感」とは何だったのか? 

平成、とくに90年代から2000年代前半にかけては、「巨大メディアが作る共通体験」の時代だった。 
●家族や友人と同じバラエティー番組を観る
●音楽番組でCDの売上ランキングを追いかける
●雑誌で芸能人の私生活に触れ、切り抜きを集める
●「昨日のMステ見た?」が会話の入口になる
●流行語やギャグが全国どこでも通じる 

たとえば広末がCMに出れば、それだけで社会現象に。中居はアイドルでありながら、司会者としても無双。そうした“テレビ中心文化”が当たり前であり、それこそが「平成の空気感」だった。 

令和は、一言でいえば「個の時代」、そして「分断された時間」の時代だ。 
●YouTubeやNetflixで自分の好きなときに、好きなものを“摂取”できる
●SNSでトレンドがコミュニティごとに同時多発的に起こる
●音楽はストリーミングで聴くものとなり、CDを買う意味は希薄に
●地上波の絶対的な強さが崩れ、視聴率では測れない時代へ
●AIやアルゴリズムが、個人の好みを自動で仕分けしてくれる 

つまり「誰もが同じ番組を観て、同じ芸能人を語る」ような文化は、ほとんど存在しなくなった。 

「平成」が終わって何が生まれたのか? 

おそらく、令和において新しいスターは「みんなのもの」ではない。YouTuber、TikToker、VTuber、ストリーマー、地下アイドル、インディーアーティスト…。スターは「共通の憧れ」ではなくなり、代わりに「自分だけの推し」へと分散していった。 

そして「平成の終わり」を感じさせる最大の要因は、その背景にあった自由な空気の喪失かもしれない。 

たとえばバラエティーやドラマも、以前は「突っ込みどころ」「変なキャラ」「やりすぎ感」がウケていた。しかし今は、「共感できる」「誰も傷つけない」「肯定的な世界観」が求められている。 

かつて「お笑い」や「スター」や「自由」は、不完全さを含みながらも成立していた。しかし現在は、その不完全さですら許されなくなりつつある。 

日本の元号が変わるのは制度上のタイミングだが、本当に時代が変わったと人々が感じるのは、もっと遅れて訪れる。そのひとつの目安が“元号の7年目”だ。 

平成7年(1995年)=「昭和」が本当に終わった年? 

この年には、社会を揺るがす出来事が相次いだ。 
●阪神・淡路大震災
●地下鉄サリン事件
●Windows 95の発売
●オウム真理教事件で「戦後の宗教観」が崩壊
●バブルの余韻が完全に消えた
●携帯電話とインターネットの普及が急加速 

これらはすべて、昭和的な社会構造と価値観が崩れ去った象徴的な出来事だった。 

そして現代の私たちは令和7年を生きている。 
●SNS以外に“世論”が存在しない世界へ
●生成AIがコンテンツ構造を根底から変え始めた
●「国民的」という言葉が死語に
●音楽やお笑い、ニュースのすべてが“推しの島宇宙”へと細分化 

もはやテレビを中心とした共通体験や、巨大資本によるスター創出といった平成的な構造は現実として成立しなくなった。 

「メディアの形」「スターの像」「空気の質」「価値の基準」――そうした平成の要素は、今や完全にノスタルジーの中にある。 

「昭和」が平成7年に終わったように、「平成」もまた令和7年、本当に終わったのかもしれない。「時代」は元号で始まり、「空気感」で終わるのだろう。