ノモンハン事件――。
それまで負け知らずの帝国陸軍が、初めて敗れた紛争である。田中角栄二等兵が応召され、満州に渡ったのは昭和14(1939)年4月初めだったが、その翌月、日本軍とソ連(現・ロシア)軍の戦車隊が、満州国とモンゴルの国境線をめぐって衝突したことに端を発した。
日本軍は航空戦では優位に立ったものの、地上戦では極めて劣勢を強いられた。結果、同年9月15日、日本軍は壊滅状態となり、東郷茂徳駐ソ大使がモスクワで、モロトフ外相と停戦協定に調印するという経緯をたどっている。
この間、日本軍の兵隊は古兵から順に戦地に送られ、それから4日後くらいには、早くも次々と戦死の公報が入っていたのだから、いかに過酷な戦況だったかが分かる。
田中が所属していた騎兵隊第三旅団第二十四連隊第一中隊は、戦闘が激化して本格的な対ソ開戦となれば、他の部隊と合同でウラジオストクを攻撃する計画だったが、停戦協定が成立したことで中止された。
仮に、田中が対ソ開戦に参加していれば、その生死も定かならずだった。また、対ソ開戦が回避されたノモンハン事件においても、古兵から順に戦地に送られたことで、新兵としての田中には順番が来なかった。ここでは〝命拾い〟をしたことになる。
まさに強運の男。のちに首相の座に就く頃、「俺は運が強い。橋は俺が渡ったあとに落ちる」と豪語したことがよみがえる。
田中は満州で、実戦とは直接関係ない「酒保」(兵営内にある兵士相手の日用品や飲食物などの売店)、「糧秣」(軍隊での人と馬の食糧)の係に回っていたことが幸いした。
のちに、田中はこう言っていた。
「俺は戦地にいるときに、銃で人をあやめなかったことを幸せだったと思っている」
田中角栄の「素顔」二つの証言
一方、こうした係での田中の「素顔」は、どんなものだったのか。二つの証言が残っている。
一つは、満州国・富錦で田中と同じ内務班に配属された小野澤富士という元伍長の娘が、のちに父から聞いた話である。
「父の話では、田中二等兵は要領がよく、憎めない人だったそうです。また、調子がいいだけでなく、真っすぐな性格の青年だったと言います。隊の雰囲気が暗くなっても、いつも鼻歌を歌い、人を笑わせるなど明るく、隊では人気者だったそうです。そのうえで、頭の良さでは、兵隊の中で頭抜けていたと言います=要約」(『週刊ポスト』平成30年11月9日号)
もう一つは、毎日新聞の田中番記者だった馬弓良彦の著書『戦場の田中角栄』(毎日ワンズ)に、次のような話が出てくる。
「酒保」係の田中は、なかなか大胆な男でもあった。ある晩、新兵が酒を呑むなどもってのほかだったにもかかわらず、田中は仲間の新兵5~6人に「食事が終わったら1杯呑もうや」と声をかけた。その後、田中は1升ビンを持ち出すと、洗面器に酒を入れ、空の1升ビンは棚に戻して茶碗での酒盛りをやってのけたのであった。
ところが、酒宴のさなか、突然、小隊長らによる巡察の軍靴の音がした。田中は仲間の新兵に「おい、エンピツとソロバンを持て」と指示、自分は洗面器の酒を部屋の隅に押しやって、棚卸しの帳簿を整理しているふりをしたのだった。
洗面器の中の酒を見て、「何をしておるか」と眉をしかめた小隊長に対し、田中は次のように弁明したという。
「皆に酒保の棚卸しを手伝ってもらい、帳簿を整理しております。(洗面器の酒は)輸送中に割れた1升ビンの整理中でありまして、処理を手伝ってもらっておるところであります」
度胸満点の「才覚」と「機転」
さすがに、二の句が継げなかった小隊長は、苦笑いをするしかなかった。輸送中に1升ビンが割れたなら、酒が残っているはずがないのである。小隊長の「武士の情け」で、ここでは辛くも〝ビンタ〟をまぬがれたのだった。
このときの話は、のちに「愛馬会」と名付けられた戦友会で、「(田中は)よくも度胸満点、ああヌケヌケともっともらしい弁解ができたものだ」と笑い話になり、同時に田中の「才覚」と「機転」に、あらためて皆が大いに感心したというものだった。
一方で、かく夜中に仲間と酒盛りはやる、立哨をさぼるなど、模範兵とはとても言えなかった田中へのビンタは、当然のようにしょっちゅうであった。
東京・市ヶ谷の陸軍士官学校を出た片岡甚松という見習士官がいた。片岡は、折からノモンハンで日ソ両軍が激突するさなか、張りきって田中のいる北満州の第一線部隊に着任して驚いた。
なんと、田中のいる第一中隊の本部には、まず門に着剣して立哨しているはずの衛兵が、いないというデタラメぶりだったのである。
軍紀の乱れに怒った片岡は、大声で「何をしておるかッ」と怒鳴った。驚いて衛兵の詰所から数人の兵隊が飛び出してきたが、こちらは軍帽をかぶらずの者、上着のボタンをだらしなく外している者ばかりである。
怒り心頭、一列に並んだ兵隊に、片岡は「バカヤローッ」の怒声とともに次々と強烈なビンタを浴びせ、この中に田中の姿もあった。
のちに、田中は「あれはビンタというよりも、本気で殴られたものだ。痛かった」と述懐しているが、この片岡は戦後、田中が興した新潟の「越後交通」で社長を務め、さらには後援会「越山会」の会長として田中を支えていくのである。
(本文中敬称略/Part6に続く)
【小林吉弥】=早大卒。永田町取材50年のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『高度経済成長に挑んだ男たち』(ビジネス社)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。最新刊に『新・田中角栄名語録』(プレジデント社)がある。