中森明菜“金屏風事件”の裏側 失意の復帰会見が悲惨すぎる【“昭和100年”伝説の記者会見(3)】

中森明菜 (C)週刊実話Web
スマホやSNSが普及した昨今は、著名人が自らの考えを発信できるようになった。しかしスマホやインターネットがない昭和&平成の時代は結婚や謝罪を表明する場合、記者会見が開かれていたのだ。

“昭和100年”を迎える2025年、その中でも芸能記者たちが「伝説」と呼ぶ会見を総ざらい。コンプライアンスがそっちのけだった時代のブッ飛びっぷりをご覧いただこう。

【関連】松田聖子“世紀の破局会見”で生まれた名言「生まれ変わってきたときは絶対に一緒になろう」【“昭和100年”伝説の記者会見(2)】 ほか
―――――――――――
昭和・平成に行われた記者会見は数知れないが、その中でもかなりディープな部類に入るのが、中森明菜が開いた復帰会見だ。

この会見は、1989年(平成元年)大晦日の午後10時から都内のホテルで行われ、その模様がお茶の間に生放送されたが、痛ましい内容を語るには不釣り合いな金ピカの屏風をバックにした異様なものだった。そのことから俗に“金屏風事件”とも呼ばれる。

もっとも、そこには明菜が起こした自殺未遂の経緯と、彼女を取り囲む芸能関係者らのさまざまな思惑が色濃く関係していたと言われている。

明菜はこの約半年前にあたる7月11日に、東京・六本木の近藤真彦のマンションで左肘の内側を切った。浴室で血まみれになっていた彼女を帰宅した近藤が発見して病院に搬送し、手術の末に一命をとりとめたのである。

「トップアイドルの明菜が搬送されたことがマスコミ的には衝撃でした。近藤と明菜は6年近くも付き合っていた。明菜は結婚を望んでいたが、ジャニーズアイドルだった近藤には、20代での結婚は考えられない。このひずみが騒動に発展した」(往年の芸能記者)

誰のための“復帰会見”だったのか

この記者によれば、同年2月に写真週刊誌へ掲載された松田聖子と近藤のニューヨーク密会キス写真が騒動の原因になった可能性が高いという。

「つまり、明菜が傷心の末に騒動を起こしたというのが、大方の芸能関係者には分かっていた。それなのに、彼女は近藤真彦とともに金屏風をバックに騒動を詫びる悲痛な会見に臨まなければならなかったのだ」(同)

会見中、明菜は「一人ひとり色々な悩みを抱えて生きていらっしゃると思います。それを一生懸命乗り越えて、頑張っていらっしゃる方がたくさんいらっしゃると思います。私も自分なりに必死に耐えましたし、頑張ったつもりです」と涙声で答えた。

「この発言と会見舞台とのチグハグさは、セッティングした人たちの思惑が反映された結果であるとも言える。ちなみに、この会見を設定したのはジャニーズ事務所だったと言われている」(同)

明菜と一緒に会見に臨んだ近藤は、「彼女が復帰するレールを敷くお手伝いが少しでもできた喜びを感じている」などと発言。来年が自らの芸能生活10周年だとメディアにアピールしたが、果たしてこの“復帰会見”は誰のためのものだったのか――。