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「超頭脳」田中角栄の事件史外伝『兵隊やくざ――“田中政治の原点”型破り戦場秘話』Part3~政治評論家・小林吉弥

衆議院議員、自民党、首相=1973(昭和48)年8月5日撮影(C)共同通信社

陸軍盛岡騎兵隊第三旅団第二十四連隊第一中隊に応召された田中角栄二等兵は、満州国・富錦の連隊駐屯地に入った。時に、21歳。兵舎に入ったその晩から、連日の〝ビンタ〟の洗礼を受けた。応召前から耳にはしていたが、新兵にとっては「地獄」とされた旧陸軍内務班の実態を早くも知ることになった。

理不尽がまかり通り、非情な戦地の現実を目のあたりにする過程で、のちの田中の胸中に「戦争は嫌だ」「戦争だけはやってはいけない」との思いが高まり、政治家として実力者の階段をのぼるごとに、さらにその意識が強くなっていったのである。

言うならば「リベラル政治家としての田中角栄」誕生の原点が、この軍隊生活にあったわけだ。じつは昭和6(1931)年9月に満州事変が始まった頃、13歳だった田中は海軍士官に憧れていた。当時はまだ、新兵への〝横暴〟などは伝えられていなかった。

何より田中少年の胸を高鳴らせたのは、『日本海海戦史』で読んだ連合艦隊司令長官・東郷平八郎の見事な采配や、徳冨蘆花の小説『不如帰』に出てくる海軍士官の主人公・川島武男のさわやかさと男らしさであると、のちに田中は語っている。戦争というものの内実を知らない子どもだけに、いわば〝カッコよさ〟への憧れがあったということだった。

一方で、牛馬商として仕事がうまくいかぬ父親と、田畑仕事で朝から晩まで働き詰めの母親を見て、一家の長男として、家を背負っていかねばならないとの思いも強かった。これについて、田中は自著『私の履歴書』(日本経済新聞社)で、次のように告白しているが、ここでは親孝行な田中少年が顔を出す。

「海軍兵学校の修学期間は、また、その頃3年8カ月くらいで、卒業すれば少尉に任官して月俸85円、中尉を経て初任給105円の大尉に任官するとなると、ここまでに10年近くがかかる。しかし、これでは母に報い、長男の責任は果たせないと思った。私には、将来、元帥、大将への夢はなく、せめて巡洋艦の艦長にでもなれればと思っていた」

学校を駆け持ちしながら“ガリ勉”

「しかし、折から母が病気で働けなくなっている。結局、私は自分の夢を追うことだけで許されるのかと思った。そして、不運で恵まれることのなかった幸薄い母を思うとき、まず母の重荷を分担し、自ら背負ってこそ初めて私の責めを果たせるのではないかと思い、私は長い夢との訣別を決めた。その夜、独りひそかに泣いたものだった」

かくて、最終的には母の病気で、海軍士官の道をあきらめざるを得なかった田中だったが、田中が海軍兵学校に入りたいと相談したとき、この母はこう言っていたそうである。

「おまえは自分の将来をしっかり自分で決めるだけの能力をもっていると思うから、私はおまえの言うことは信用し、賛成します」

田中自身はこのときの母の言葉に対し、「母は私が相談すれば、必ず『悪いことをするのでなければ』として、たいていは聞き入れてくれたものだが、このときの言葉は改めて厳粛な気持ちで聞いたものだった」と述懐している。

当時、高等学校(旧制)から大学に進むには、中学校(旧制)の卒業者か「専検」(専門学校入学資格検定試験)合格者でなければならなかったが、海軍兵学校も陸軍士官学校も、中学4年2学期修了の学力さえあれば受験することができた。陸海軍とも、資格より実力に重点を置いており、また、陸海軍経理学校、海軍機関学校などの受験資格も、あくまで実力本位であった。

ために、海軍兵学校受験を前に、15歳で新潟から上京した田中は、学歴が尋常高等小学校高等科卒業のため、中学4年2学期修了の実力をつけなければならず、夜は機械関係の図面引きの下請け仕事に精を出し、昼間は学校を駆け持ちしながらメチャクチャに〝ガリ勉〟をした。

例えば神田三崎町の「研数学館」や「正則英語学校」に通い、「錦城商業学校」には4年編入で入学、そのほか土・日に講習などの機会があれば、どこにでも出向くといった具合だった。当時の勉強ぶりを振り返って、後年、田中はこう話したことがある。

努力で鍛え上げた“超頭脳”

「私の勉強法は、徹底した暗記だった。私は暗記は教育の中で、今でも一番、大切なことの一つと信じている。物を考え、自ら修業する教育も立派なことだが、原理、定理、方程式、物をはかる尺度など、根気よく暗記していないと、新しい進歩、前進にも運用できないからだ。

ために、『広辞林』や『コンサイス』の辞書も1枚破っては常にポケットに入れ、全部、暗記したら捨て、次の1枚も同様にして覚えたものだ。学問に近道なんてあるわけがない」

〝超頭脳〟と言われた田中だったが、こうした努力で鍛え上げた頭脳でもあったのである。

時に、田中は身長5尺4寸1分(約164センチ)、体重16貫300匁(約61キロ)、絶好のコンディションで海軍兵学校の試験に臨んだ。

目黒の海軍大学校での身体検査では、1万3000人余の受験者の中で、じつに13番の成績であった。田中は、こうも言っている。

「次の学科試験は、築地の海軍経理学校で行われた。全国の中学から受ける者の合格は、たいてい首席か2番までが限度と言われていたくらい難しかった。しかし、私には学科試験に合格する自信が十分にあった」

その学科試験は、結局、母の病気、一家を支えるために、無念の断念をしたということだった。

その断念から約5年後、21歳で陸軍に応召されることになった田中は、夢見た海軍士官とは裏腹の現実を味わうことになる。第二十四連隊第一中隊の田中の班では、1週間のうち2~3日は、誰かが必ずビンタという名の〝ヤキ〟の洗礼を受け続けた。田中へのそれも、やむことがなかったのである。

(本文中敬称略/Part4に続く)

【小林吉弥】=早大卒。永田町取材50年のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『高度経済成長に挑んだ男たち』(ビジネス社)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。最新刊に『新・田中角栄名語録』(プレジデント社)がある。