
素直に歌手と言えばよいものをわざわざ「アーティスト」と呼び、挙句はスタジオにいる観覧客まで指して「オーディエンス」とほざき始めたのは90年代、地上波テレビ某局の音楽番組からと記憶するが、スポーツ選手を引っくるめて「アスリート」と呼びだしたのはいつ頃からだろうか。
その意味で、ここに登場するのは決して「アスリート」ではない(なにしろボクサーやプロ野球選手といった人のみならず、『イシノヒカル』と名付けられた競走馬もが印象的な主役を務めるのだから)。
無色透明な性格ではあり得ない書き手として、スポーツノンフィクションを私小説にしてしまった若き日の著者による、もはや古典と化した本書。
スポーツライターたちに影響を与えた文体
冒頭(『クレイになれなかった男』)と巻尾(『ドランカー〈酔いどれ〉』)を飾るのがカシアス内藤と輪島功一という2人のボクサーである点も相俟ってか、時に果敢な接近戦を挑み、時に冷静に距離を取るかのような取材対象への感情移入の度合と筆致が、まさに試合でのヒット&アウェイ戦法を思わせてグイグイ引きずり込まれる。
そして一読納得するのは、たとえば『Number』等に執筆しているスポーツライターたちが、いかに著者の文体の息長く影響下にあるかだ。率直にあられもなく申せば、カッコいい。いな、以下の実例が典型的だが、ちょっと格好よすぎかも知れない。
「人間は、燃えつきる人間とそうでない人間と、いつか燃えつきたいと望みつづける人間の、三つのタイプがあるのだ」「望みつづけ、望みつづけ、しかし〝いつか〟はやってこない。内藤にも、あいつにも」「そしてこの俺にも…。」
最後の一行が、あえて私小説と評したくなる所以。
(居島一平/芸人)