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ビートたけしと「闇営業漫才」1時間!~島田洋七『お笑い“がばい”交遊録』

島田洋七
島田洋七(C)週刊実話Web

たけしと本格的に仲良くなったのは、俺らが東京へ出てきてからですね。横山やすしさんの紹介で一度、飲んだことがあったきりだった。

当時はまだB&Bは大阪を拠点に活動していたし、たけしは東京で離れていたでしょ。

その後、俺らも徐々に大阪のローカル番組に出演させてもらえるようになったけど、その頃、大阪の番組は、ばあちゃんや友だちがいる佐賀や、かあちゃんのいる広島では放送してなかったんですよ。だから、母ちゃんやばあちゃん、友だちに見てもらうことができなかった。東京の全国放送の番組に出れば、活躍している姿を、みんなに見せることができると思って、吉本興業を辞めて東京へ進出したんです。

東京で初めて舞台に立ったのが浅草演芸場だった。後で知ったんだけど、その時の観客の半分は東京の芸人だったらしいんですよ。B&Bという大阪で人気の若手芸人が東京へ進出して来たから、見に来てたんだって。その中にたけしもいたと聞いたね。

漫才ブームが始まって、B&Bも物凄く忙しくなった。その中の1つがB&Bが総合司会だった昼の帯番組『笑ってる場合ですよ!』。火曜日に「勝ち抜きブス合戦」というコーナーがあって、そのレギュラーがたけしだった。そんなコーナー、今やったら、お叱りを受けると思うけど(笑)。それで久々に再会して、お互い酒を飲むから、一緒につるむようになって、どんどん仲良くなっていったね。

ある日、俺が借りていた都内のマンション近くの屋台で飲んでいると、保険会社の人に出会ったんです。そうしたら、その人に保険会社のイベントで漫才の営業をやってくれないかと頼まれた。保険会社は、市民会館などで歌手を呼んでイベントを開いてたからね。

5分間隔でボケとツッコミ1時間!

その人は歌手ばかりだと面白くないから、お笑いの人も呼んでみたいと。でも、B&Bだとテレビでお客さんも見慣れているから、「洋七さんとたけしさんで1時間半、漫才で出てもらえませんか」って。たけしにその話をしたらヤル気だったんだけど、2人の漫才だけで1時間半は無理でしょ。1時間くらいは漫才できるとは思うけど、残りの30分をどないしようかとなって、俺らの前に他の芸人さんに30分くらい出てもらおうということになったんです。

たけしは「今いくよ・くるよ姉さんに出てもらおうよ」って言ったんだけど、姉さんたちのような面白い漫才をされたら、後に出る俺たちは絶対にウケないからね。それで、名前も売れていて、そこそこ面白い人ということで、たけしが林家ペー・パー子さんにお願いしようと、電話したら引き受けてくれたんです。

当日、ペー・パー子さんが漫才をやって、最後にパー子さんが踊りを披露したの。踊りだと拍手だけだから、俺らも漫才やりやすいんですよ。いざ出番になったら、5分くらいたけしがボケて、俺がツッコむ。そしたら「はい、次!」って、ボケとツッコミが交代する。それを5分間隔で1時間くらいやって、会場は大爆笑だったんです。

お客さんからしたら「はい、次!」がギャグだと思ったみたいで。そんな漫才、見たことないでしょ。結局、そのイベントはパルテノン多摩や渋谷公会堂など3カ所でやったんです。

島田洋七
1950年広島県生まれ。漫才コンビ『B&B』として80年代の漫才ブームの先駆者となる。著書『佐賀のがばいばあちゃん』は国内販売でシリーズ1000万部超。現在はタレントとしての活動の傍ら、講演・執筆活動にも精力的に取り組んでいる。

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