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逆転有罪判決から7年…山本國春・初代健國会会長が死去

逆転有罪判決から7年…山本國春・初代健國会会長が死去
逆転有罪判決から7年…山本國春・初代健國会会長が死去 (C)週刊実話Web

30年もの間、山健組の直参として生き、引退後は病魔と闘い続けた山本國春・初代健國会会長が4月10日、この世を去った(享年71)。

國春初代は、渡辺芳則五代目が興した初代健竜会の出身で、昭和57年に二代目山健組で直参に昇格。松田組との〝第3次大阪戦争〟の報復戦では、井上邦雄組長と共に身体を懸けた。

平成元年、山健組が桑田兼吉三代目体制になると渉外委員に抜擢され、健國会の前身である兼國会を率いて勢力を拡大。同17年には井上組長の四代目山健組で渉外委員長となり、健國会に改称した。その後、若頭に取り立てられて山健軍団を統率し、注目を集める存在となった。

ところが平成22年、兵庫県神戸市内の路上で四代目山健組傘下の五代目多三郎一家・後藤一男総長が刺殺された事件(平成19年発生)の首謀者として、組織犯罪処罰法違反(組織的殺人)の容疑で逮捕、起訴される。

この事件では、実行犯ら複数の健國会組員が逮捕され、検察側は「殺害直前、携帯電話で後藤総長の居場所を現場指揮役に教えた」などと主張。國春初代は「殺害を指示したことはない」と一貫して無罪を訴え、平成24年、神戸地裁も「事件の指揮や共謀について合理的な疑いが残る」として、無罪(求刑は懲役25年)を言い渡した。

業界内外でその名を知られた健國会

しかし、検察側が控訴し、大阪高裁は「経験則上、特段の事情がない限り、組長の指揮命令に基づいて行われたと推認すべきで、健國会の組織的な犯行」として、懲役20年の逆転有罪判決を言い渡したのである。

國春初代は最高裁に上告。平成26年に引退したが、翌年、上告が棄却されて刑が確定する。法廷闘争と同時に病魔とも闘っていたようで、平成28年には当時、〝天皇陛下の執刀医〟として知られた外科医に「リスクが高い」と診断され、この診断書をもとに「収監には耐えられない」として刑の執行停止を申請。裁判所がこれを認めたため収監が見送られ、病気療養を続けてきたのだった。

「健國会は三次団体やが、業界内外でその名を知られとる。今は神戸山口組傘下の山健組・西野雅之本部長が、二代目として地盤を引き継いどる」(ベテラン記者)

4月11日には神戸市内の斎場で通夜が営まれ、山健組・元満志郎組長代行、與則和若頭らが弔問した。

「特定抗争指定の警戒区域内やから、惜別の時まで抗争が影響して、組員5人以上が集まらんようにしとったで」(同)

翌12日、青空の下で出棺され、國春初代に最期の別れを告げたのだった。

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