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神戸山口組元最高幹部が本誌独占インタビューで“分裂抗争”の真相を激白!

神戸山口組・奥浦清司元顧問
神戸山口組・奥浦清司元顧問 (c)週刊実話

東大阪市内の喫茶店に現れた神戸山口組(井上邦雄組長)・奥浦清司元顧問は、開口一番、「ホッとした」と安堵の表情を見せた。定例会などで漂わせる緊迫した雰囲気はなく、時折、思いを馳せるように窓の外を眺めて言葉を続けた。

ただ、引退後の「新しい人生」に触れると、眼光は鋭くなり口調も熱を帯びた。

「ヤクザでも俺みたいな人間がおんねん、ということを伝えたいんや」

半世紀にわたって歩んだ渡世。足を踏み入れるきっかけとなった「ボンノ」こと菅谷政雄組長との縁、「一番好きやった」と話す波谷守之・波谷組組長との秘話、そして、自身も渦中に身を置いた山口組の分裂について、胸中を明かした。

明治生まれの両親は九州出身で、共に教職員だった。大阪で結婚し、戦中の昭和18年、奥浦元顧問は旧枚岡市(現・東大阪市)で長男として生を受ける。

「両親には、ようどつかれたわ。『先生、先生』呼ばれて厳しかったからね。生活は裕福でもなく貧しくもなく、普通やった。でも、物心付いたのは戦後やったから、『ギブ・ミー・チョコレート!』言うて進駐軍のジープ追いかけてね。黒人の兵隊のほうがよくくれる言うて。その頃はみんな親が死んだり、満州から引き揚げてきたりいろいろあって、私も小学校高学年ごろからヤンチャになっていった。竹のムチでようどつかれとったけど、暴力言うても愛情やったね」

人一倍、正義感が強く、教員のやり方に納得できないことも多々あった。

「不条理なことで叱られて、お寺の縁の下に隠れたこともあった。そんなことばっかり。まあ、ヒロポンも新聞紙に包んで売られとった時代やからね」

奥浦元顧問が16、17歳の頃、母親が40代の若さで病死。それをきっかけに、不良の道を歩み始める。

「司六代目に対して一番に思うことは…」

「家には帰らなかった。戦後の混乱が少し落ち着いていたけど、金の力で道理に反することや不正義がはびこっていた。今では考えられんようなことが起きていたから。あちこちに不良グループがあって、私も自然と集まって、四畳半のアパートを借りて雑魚寝したりね。いい思い出ばかり」

当時から組織との交流があり、27歳で激戦区の飛田新地に事務所を構えた。

「奥浦組はここから旗揚げした。菅谷組の枝(系列組織)でね。弱いから徒党を組んで集まって、10何坪の狭いところに10人くらい寝させとった。みんな金がないから彼女やら連れ込んで、19歳から一緒のうちの嫁さんが、たくあんとご飯出してね。その時代、誰でも出発は苦労しとる」

旗揚げから2年後、菅谷組長の盃を受け直参となる。人生で初めての盃だった。

「ギャング団のボスやったから、『親分』言うと怒りよった。亡くなったあとも、ボスの親族とは交流がある」

昭和52年、三代目山口組直参だった菅谷組長が絶縁処分を受け、奥浦元顧問も人生の岐路に立つ。

「ボスが絶縁になったとき、舎弟やった波谷さんが『辛抱するしかない』と言ってね。バンバン撃つような時代やったから。波谷さんにはいろいろ教えてもらい、本当の弟みたいにしてもらった。一番好きやったね」

菅谷組が解散した昭和56年、奥浦元顧問は三代目山口組直系・長谷組(長谷一雄組長=引退)の舎弟として、山口組に復帰。長谷組では奥浦聯合を率いて、生まれ育った東大阪を中心に勢力を拡大していった。

平成元年6月、渡辺芳則五代目体制が発足し、長谷組から直参に昇格。五代目山口組は直系組織数120を超え、当時、奥浦組も組員数560人を誇ったという。

「三代目の田岡(一雄)の親分は、終戦後の日本の治安を守るために組織を成長させてくれた。雲の上の人やった。四代目(竹中正久組長)は、ええ、悪いがハッキリしとって、例えるなら桜の花のような人やった。見事で、きれいで、ほんまに邪念のない…。五代目は、いろんなことがあっても組織を固めてくれた。今の六代目(司忍組長)に対して一番に思うのは──」

▶この続きは明日(15日・一部地域は16日)発売の『週刊実話』2021年4月29日号に掲載しています。

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