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「母親からの影響」田中角栄の事件史外伝『宿命の二人――竹下登との“人たらし比べ”秘録』Part9~政治評論家・小林吉弥

「母親からの影響」田中角栄の事件史外伝『宿命の二人――竹下登との“人たらし比べ”秘録』Part9~政治評論家・小林吉弥
衆議院議員、自民党、首相=1973(昭和48)年8月5日撮影(C)共同通信社

田中角栄と竹下登は、昭和60(1985)年2月に田中が脳梗塞で倒れ、事実上の政治生命を失うまで、27年間の長きにわたって同じ派閥のレールを走ったが、熾烈な神経戦の中でついぞそのレールが交わることはなかった。

その間、竹下は田中による〝監視網〟をくぐりながら、苦節、田中派の大勢をまとめ上げ、田中の死去後、ついに天下を取ってみせた。泉下の田中は、天下を取った竹下をどう見ていたのか、まさに「宿命の二人」と言えたのである。

しかし、二人にはある共通点があった。共に母親から精神形成において強い影響を受け、そっくりそのまま政治家としての骨格になったという点である。

田中は朝から晩まで泥田に入り、愚痴ひとつ言わず一家を支える母・フメの姿を見て育った。15歳で上京するその日、フメは田中に三つのことを言い置いたものだった。

「人間は休養が必要だ。しかし、休んでから働くか、働いてから休むかのうち、働いてから休むほうがいい。また、悪いことをしなければ(東京に)住めないようになったら、郷里(新潟)へ早々に帰ること。そして、カネを貸した人の名前は忘れても、借りた人の名は絶対に忘れてはならない」

田中は「この日の母の言葉を一生忘れていない。この言葉がワシの生き方のすべてをつくった」と、のちに述懐している。

一方の竹下の母・唯子は、大正デモクラシーの中で女学校に通い、酒造業を営む竹下家に嫁いでからは女当主の一方で、新しい時代の風潮にますます敏感な〝新知識人〟の女性である。また、唯子は子供の教育にも熱心で、しつけにも厳しく、幼小時の竹下を常々たしなめていたという。

「おまえは竹下家の嫡男として、使用人たちから一目置かれる立場にあります。仮に、おまえが理不尽なことを言っても、『はい、分かりました』と言わなければならないのです。だから、どうあれ他人様を絶対に怒ってはなりませぬ。悪口もダメです。また、何事もおのが力と思わず、汗は自分で、手柄は人様にあげることを心掛けることです。辛抱は、人を玉にします」

“起と結”の田中角栄と“承と転”の竹下登

のちに、竹下自身は言っていた。

「母の教えを守り続けた。私はこれまで、一度として人を怒ったことがないが、怒りをこらえるということは自分に勝つことだと知った。実際は、なかなかつらいことではあったが。しかし、人から憎まれることがなかったのは、本当に幸せだったと思っている」

田中は、よく「カゴに乗る人、担ぐ人、そのまたワラジを作る人」という言葉を使った。どんなに社会的地位がある人でも、周囲の人たちのそれぞれの支えがあってこそであり、一人でその立場にいるのではないという例えだが、じつは、この言葉を田中より早く使っていたのは竹下だった。

その後、叩き上げの田中は、竹下がよく使うこの言葉が身に染みたのか、田中派の会合で一致団結の必要性などを説くとき、この言葉を拝借したものであった。このことは、人を見る目、人生観の底流が、じつは田中も竹下もよく似ていたという証左になっている。

こうした共通項を持ちながら、結局は相交わることのなかった「宿命の二人」だったが、その政治手法の絶対的な違いを長く見ていた小沢一郎(現・立憲民主党)は、筆者にこう話してくれたことがある。

「田中さんの場合は、碁、将棋によくいる天才のように、政治の勘みたいなところが、とくに凄かった。また、勝負事で言えば、〝早見え〟のするタイプで、よくポンポンとしゃべっていたように、まずいろいろな相手に自分から直球を投げる。そして、返ってくる反応を見ながら結論を出し、決断して落とすところに落とすという手法だった。一方の竹下さんは逆。自分からはボールは投げず、ボールをあちこちから受け、その反応を見ながら調和点を見つけるというものだ。

田中さんは、起承転結の〝起と結〟の人で、一喝してあとはケロッとしている陽性。対して、竹下さんは〝承と転〟の人。決して叱らないから、真綿でクビを絞められているという怖さがあった」

力量評価を見誤まることはなかった田中角栄

一見、「水と油」の二人ではあったが、次のようなエピソードがある。

田中はすでに政権を降り、中曽根(康弘)政権時には「闇将軍」と言われて影響力を保持していたが、竹下は当時、大蔵大臣として入閣していた。政権発足時には「竹下幹事長説」もあったが、自民党内における竹下の影響力をそぐため、田中が中曽根に根回しして、幹事長就任をつぶしたとの噂もあった。

これに関して、ある政界関係者が「なぜ田中先生は竹下さんを幹事長に推さないのですか」と問うと、田中が顔を真っ赤にして怒りだしたというのである。その関係者の弁である。

「田中先生は『なんで、おめぇらみたいなヤツが竹下の人事を心配するんだ。竹下は将来、自民党を背負っていく人物だ。そういう人物が、国の財布の中身を知らないでどうするんだ。だから、いまは大蔵大臣をやってもらっている。〝竹下を幹事長にしろ〟などと言っているヤツもいるが、大蔵で力をつけることが先だ。おめぇらは、何も分かっちゃいないッ』と、目を据えられて一喝された。

私もさすがに震え上がった。あとで思うと、先生は確かに竹下さんを好きではなかったようだが、能力評価に情実を入れることはなく、その力量は正当に評価していた。私情は四分で抑え、政治家の力量評価を見誤まることはなかった」

この関係者が、のちに政権を降りたあとの竹下にその旨を伝えると、竹下はポツリこう言ったそうである。

「佐藤(栄作)派時代から一貫して、田中さんはこの私をうまく使ったとは言えるだろう。これも、田中さんの政治的腕力、能力ということだわな」

竹下得意の、精いっぱいの「気配り」と聞こえたのだった。

(本文中敬称略/次回からは新章「兵隊やくざ」が始まります)

【小林吉弥】=早大卒。永田町取材50年のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『高度経済成長に挑んだ男たち』(ビジネス社)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。最新刊に『新・田中角栄名語録』(プレジデント社)がある。