プロレス界においては何かにつけて偉人扱いされてきた〝東洋の巨人〟ジャイアント馬場だが、その一方、テレビのバラエティー番組などではコミカルな姿を見せることも多かった。その真の素顔は、果たしてどちらだったのだろうか。
ジャイアント馬場の名前を聞いたときに、一般的にはむしろレスラーとしてよりも、それ以外のイメージを思い浮かべる人のほうが多いかもしれない。
例えば、ビートたけしのネタである「馬場さんが飛行機に乗るときは、うつ伏せになって翼に手を入れている」「巨人で投手をしていたとき、ボールを投げた手でバックネットをなぎ倒した」などは、プロレスファンならずとも知っているだろう。
関根勤が元祖とされるものまねの「アポー」も、数限りない芸人が追随したことで広く一般に浸透。また、「シッペ、デコピン、ババチョップ」などと、今もなお子どもの手遊びにその名が使われたりもしている。
あるいはテレビ番組やCMでの姿…中でも1982年に放送されていたヤマハの家庭用キーボード『マイバンド』のCMを覚えている人は、きっと少なくないだろう。
タキシード姿の馬場が微妙にリズムを取りながら、たどたどしい手つきで『ユー・アー・マイ・サンシャイン』を奏で、最後に「僕にも弾けた」と言い放つ。このフレーズはちょっとした流行語にもなっている。
なお、日本プロレス時代にも映画などへのゲスト出演はあった馬場だが、プロレス以外での本格的なメディア登場となると、このCMがほぼ初めてのことだった。
これ以降も多くのCMに出演しており、『ジャイアントコーン』や『ジャイアントカプリコ』などグリコ製品のCMでは、堀ちえみや酒井法子らのアイドルと共演。1985年ごろから約10年間にわたって起用されている。
ネタにされたビートたけしとも共演
また、テレビのバラエティー番組では『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』(日本テレビ系)に準レギュラーとして出演。司会の逸見政孝が入院していたときには、代理で司会を務めたこともあった。
こうしたテレビ関係の仕事においての馬場は、陽気な笑顔が目立ち、進んでジョークを発することもしばしば。声質こそくぐもっているものの、しゃべり自体は案外と流ちょうで聞き取りやすく、むしろ、昨今のスポーツ選手よりも、タレント適正は上と言えそうなくらいだった。
身体的な特徴をイジられることを嫌いそうな印象もあるが、その最たるものだったビートたけしと、83年のNHK『ゆく年くる年』で共演するなど、器の大きいところも見せている。
では、その頃にレスラーとしての馬場は、どのような状況にあったのかというと、80年にハリー・レイスから自身三度目となるNWA世界ヘビー級王座を奪取。翌81年には3000試合連続出場記念試合として、バーン・ガニアとAWA、PWFのダブルタイトル戦を行っている。
このような記録だけを見ると、まるで全盛期のようにも感じられる。しかし、実際にはレイスとのリターンマッチで、ロープに股間を打ち付けて敗退した際には、そのスローな動きも相まって年齢的な衰えを指摘されていた。さらに82年、新日本プロレスから移籍してきたスタン・ハンセンとの対戦が決まったときには、ファンから「馬場が殺される!」と心配の声が上がったほどだった。
もともと馬場は健康不安もあり、長く現役を続けられないとの意識が強かったという。
体だけでなく心もジャイアント
64年のアメリカ遠征において大人気を博し、NWA、WWWF、WWAへの世界タイトル連続挑戦という史上初の偉業を成し遂げたときには、「力道山の死により日本のプロレス界の先行きは不透明だから」と、アメリカマットへの定着を強く求められた。しかし、これを断り日本に戻ったのも、レスラー廃業後の生活を考えてのことだったようだ。
そのため全日本プロレスを旗揚げした72年の時点では、すでに自身の引退を想定していたというが、後継者として期待したジャンボ鶴田がなかなか人気を得られず、辞めどきを逸してしまったともいわれる。
また、ザ・ファンクスら外国人選手にエース格を任せようにも、試合を中継する日本テレビや地方の興行関係者たちからは、「やはり馬場がエースでないと」と強い要請があり、やむなく全日の看板を背負い続けてきた。
しかし、ようやく82年になると、鶴田がそれまでの星条旗パンツから黒のショートタイツへとコスチューム変更。実績を積み重ねたことで〝全日のエース〟としての風格も備わり始めてきた。そこで、馬場が「ようやく肩の荷を下ろせる」となった時期と、テレビ出演が増え始めた時期が重なったのは、きっと偶然ではないだろう。
99年5月2日、全日主催の東京ドーム大会において「引退記念試合」として行われた追悼セレモニーでは、馬場のライバルにして盟友だったブルーノ・サンマルチノが、「あなたは体だけでなく心もジャイアントだった」と語った。
アントニオ猪木との比較や新日との興行合戦においては、謹厳実直かつ強権強面のイメージもあったが、実際にはCMで堀ちえみと並び、満面の笑みでジャイアントコーンにかぶりつく姿こそが、本来の馬場であったのかもしれない。
《文・脇本深八》
ジャイアント馬場
PROFILE●1938年1月23日生まれ。新潟県三条市出身。身長209センチ、体重135キロ。 得意技/16文キック、ジャンピング・ネックブリーカー・ドロップ。
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