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「政界のおしん」田中角栄の事件史外伝『宿命の二人――竹下登との“人たらし比べ”秘録』Part6~政治評論家・小林吉弥

衆議院議員、自民党、首相=1973(昭和48)年8月5日撮影(C)共同通信社

田中角栄と竹下登の「ポスト」についての受け止め方、認識は大きく違っていた。田中は役職に就くと、そこで一気に次のステップにつながるような爆発力を発揮した。歌舞伎の舞台で言えば、その演目で〝白塗り〟の主役を張り、必ず観客の拍手をもらってから、次の舞台への期待感をつなぐのである。

ために、「役」には執着があり、初入閣となった岸(信介)内閣での郵政大臣就任直前には、300万円の現ナマをリュックに入れて岸首相のもとに運んでいる。田中らしい〝入閣運動〟であった。

また、池田(勇人)内閣での大蔵大臣就任は、池田にかわいがられていた「盟友」の大平正芳(のちに首相)が、池田首相から閣僚ポスト案を一任されていたのをいいことに、「俺を大蔵大臣にしてくれ」と大平に懇願、強引に〝主役ポスト〟の蔵相を手に入れてしまった。

このとき、池田は「どこの馬の骨か分からん田中の大蔵はまかりならん」と、大平に〝田中蔵相案〟の変更を命じたのだが、大平が池田に「田中の経済、財政への目は確か」とねばり、押し切ったというエピソードがある。田中はこの蔵相ポストで存分の力量を発揮し、のちの天下取りへのスプリング・ボードとしたのであった。

ところが、一方の竹下のポストへの向き合い方は、そうした田中とはことごとく違っていた。すなわち、ポストを自分で取りにいくのではなく、とにかく与えられた仕事に全力を尽くすということである。

先の歌舞伎の舞台に例えるなら、田中が主役であることに執着したのに対し、竹下は特に役にはこだわらず、たとえ脇役でも、それに徹して着々と役者仲間の信頼を勝ち得ていった。それは、やがて確実に人脈の構築につながり、田中とは異なる道を歩みながらも、ついには天下を取ってみせたということだった。

「竹下さんの親切ぶりにはホトホト感激した」

常に役に徹し、そのうえで目配り、気配りが各所に行き届いていた「竹下流」には、当時の政治部記者のこんな証言が残っている。

「田中角栄が幹事長時の昭和44年12月の総選挙で、羽田孜(のちに首相)、小沢一郎(現・立憲民主党)らの若手が初当選してきた。時に、竹下は当選5回目を果たしたのだが、どうしたものか依然として国会対策副委員長という〝軽量ポスト〟であった。ところが、ここで竹下流の『与えられた仕事に全力を尽くす』が垣間見られたのです。

羽田らの新人たちを前に、まるで小学校に入学したばかりの生徒を諭すように、じつにキメの細かい親切な教え方をしていた。『竹下です。当選、心からおめでとう。何か不都合や、分からないことがあったら、なんでも私に言ってきてください。ところで、所属したい委員会の希望はありますか』『国会の雰囲気に慣れるということなら、国会対策委員もいいですよ。毎日、毎日、国対委員会室に顔を出すことから、国会にかける法律は全部聞けるので法律の勉強にもなり、各部会での説明も聞けます。とにかく、勉強になるんです』と。

あるいは国会内を引率しながら『ここが議員食堂。メシを食うところです。もし、大臣に頼み事があるときは、水曜日、金曜日(注・現在は火・金)に閣議が開かれるので、このへんで大臣を待っているとつかまえやすい』などと、まさに痒いところに手が届くような教え方をしていた。羽田などは、のちに『先輩議員は怖いと思っていたが、あの竹下さんの親切ぶりにはホトホト感激した』と言っていた。ここまでやった国対副委員長など、歴代の国対委員長も含めて一人もいなかったのです」

「政界のおしん」と呼ばれたのもうなずける

「昭和42年1月の総選挙で、公明党が初めて衆院に議席を得た。初の登院という日、竹下はわざわざ国会内のエレベーターのところまで迎えにいき、『自民党国対副委員長の竹下です。これから公明党さんの国会内の部屋を案内させていただきます』と頭を下げていた。そうした議員のなかには、竹入義勝(元委員長)、矢野絢也(元書記長)といったのちの公明党を背負う人物がいた。こうして竹下は公明党、創価学会と太いパイプを構築、その後の〝自公協力〟の信頼関係の基礎をつくっていったのです」

とにかく、竹下はポストについて、とても恵まれたとは言えなかった。初めての政務次官(通産)就任も同期でビリ。そのうえ「軽量」「下積みポスト」とされた国対副委員長も、じつに6期5年の長きを余儀なくされている。これは現在でも、国対副委員長ポストの「最長記録」である。

政治家としてのこうした扱いは、一般社会の企業で言えば、「アイツは下積みポストが、あまりにも長すぎる。何か〝上〟が引き上げられない事情を抱えているのではないか」といった〝後ろ指〟を指されているのに等しいのである。

また、国対副委員長ポスト以外でも、「副」「代理」ポストを多々踏み、のちに官房長官をやったあとに副幹事長、建設大臣のあとに自民党全国組織委員長、大蔵大臣のあとに自民党選挙制度調査会長といった具合に、エレベーターよろしくの〝一進一退〟を繰り返すという、政治家としてはなんとも珍しい階段の登り方だった。

まさに、辛抱、我慢の連続ということで、後年に竹下が「政界のおしん」と呼ばれたのも、うなずけるのである。

しかし、どのポストにおいても不満を口にすることなく、与えられた仕事に全力を尽くし、確実にそれなりの成果を見せつけた。こうした竹下を、田中はのちに怒りの口調で罵倒したことがある。

「竹下は雑巾がけだッ」

竹下のやること成すことすべてが、気に障る田中であった。

(本文中敬称略/Part7に続く)

【小林吉弥】=早大卒。永田町取材50年のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『高度経済成長に挑んだ男たち』(ビジネス社)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。最新刊に『新・田中角栄名語録』(プレジデント社)がある。