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劇作家・花登筺“大阪ド根性流で偉業達成!”~灘麻太郎『昭和麻雀群像伝』

Tomas Skopal / Shutterstock

55年の短い生涯の中で、6000本もの作品を残した花登筺(はなとこばこ)は、草創期のテレビ業界に大物劇作家として君臨し、大村崑を一躍スターの座に押し上げた『やりくりアパート』や『番頭はんと丁稚どん』など、高視聴率の連続ドラマを週5本執筆するという離れワザをやってのけた。

その後も『道頓堀』『船場』『細うで繁盛記』『どてらい男』『あかんたれ』などヒット作を連発。義理人情を基調にしたドラマ作りは、昭和を生きた多くの日本人から共感を集めた。彼の座右の銘は「泣くは人生、笑うは修業、勝つは根性」で、とりわけ3つ目の「勝つは根性」は、花登の麻雀にも色濃く反映されていた。

一言で表すなら、その雀風は攻守の境目がはっきりしていること。ひとたび攻めるとなれば、徹底的に押していく。ガードを堅めつつ、失点を避けながら和了を狙うといったオーソドックスな攻めではない。与えられた手材料を最大限に活用する。

好牌を引けばしっかり温存し、少しでも高い手役を模索していく。そのため、13枚の中に安全牌を抱えることはめったにない。防御に使える安全牌を持つことより、アガりに有効な脂っこい牌を手中に収める。

こうした打法で中盤から終盤に入っていけば、おのずと放銃につながってしまう。手を広げすぎた結果、安全牌がないために、むざむざ失点を喫するケースが出てくるのは当然であろう。しかし、それでも構わない。5200点を放銃すれば満貫をアガればいいし、満貫を打ち込んだらハネ満で返せばいい。

麻雀というゲームは、アガってなんぼの世界ゆえ、途中の失点よりも最終的にどれだけ点棒をかき集められるかの勝負である。花登はその特質を十分に熟知しているからこそ、なんら放銃を恐れることなく、危険牌を切り落としていく。

がめつく稼いでドケチに変貌

こうして先取点をもぎ取り、トップの手応えをつかんだ途端、彼の麻雀は一変して守勢にまわる。あれほどまでに放銃を繰り返していたことが嘘のように、手堅い戦法で失点を防ぐ。その切り替えの見事さは、他の追随を許さない。

まさしく、花登が描くところの大阪〝ド根性流〟麻雀であろう。がめつく稼ぎまくり、しっかり蓄えができると、一転してドケチに変貌する。

彼が存命の頃、雀豪作家は、阿佐田哲也、五味康祐、清水一行、畑正憲など五指に余っていた。

ある週刊誌のビッグタイトル「名人戦」には、プロが数名、有名雀豪と言われていた人々が32名も出場した。トーナメント戦で勝ち抜き、選ばれた4名で決勝戦を行うというシステムだったが、作家の中で8期、9期と連続名人位となったのは花登だけであった。

坊や哲(阿佐田哲也)もムツゴロウ(畑正憲)も、大阪〝ド根性流〟麻雀の前に散ったのである。もちろん、プロの私も小島武夫も同じ運命だった。

花登はずいぶんと私をかわいがってくれた。殺人的なスケジュールの合間を縫うようにして、「食事に行こう。赤坂においで…」と連絡をくれる。

灘「忙しいんじゃないですか?」

花登「原稿なら大丈夫。早書きで有名なんだ。ドラマの一本なら新幹線の中でも、ゴルフ中でも、ガバンを吊るしながらでも書けるよ」

わずかに8年の結婚生活だったが、愛妻の星由里子が夫の雀友のために特上のうな重を注文し、吸い物などの準備でかいがいしく動いていた日々が、懐かしく思い出される。

また、花登は麻雀界発展のために、いろいろと尽力してくれた。日本プロ麻雀連盟発足に関しても、しっかりしたプロの団体をつくるべきだと助言をくれた上、何事も〝定款〟が大事だと言い、大蔵省のOBを紹介してくれた。

震える手で最後の半チャン

1983年9月27日、花登は星に連れられて、札幌の病院にいた。星は花登を入院させようと連れてきたのだが、「ダメだ。このまま連れて帰ってくれ」と追い返されたという。医者の目には、花登の余命は数日と映ったようだった。

花登は半年以上前から、自分に死期が迫っていることを知っていたようで、ある週刊誌に芸能界への遺書的な連載を続けていた。

「最近、俺を裏切っていった連中から、会いたいとか連絡がくるんだ…」

と花登は寂しげな笑顔を見せていた。最後に何かしてやれることはないだろうか? 私ができることは、やっぱり麻雀しかない。

同年10月1日の14時ごろ、荒正義プロ、札幌から来ていた仲沢青龍プロを伴い花登家へ。

玄関で待つことしばし。しばらくすると、げっそりと痩せこけた花登がパジャマ姿でよろけながら出てきて、それでも精いっぱいの笑顔を見せた。

灘「半チャンどうです?」

花登「こんな体だけど、いいのかい…」

互いの思い出づくりであることは分かっていたはずだが、花登は勝負師3人に気を使ってくれた。

卓についた4人。ここからは真剣勝負だが、花登は震える手でときどき牌を指先から落とした。それでも手のうちは、しっかりと役を作っており、防戦一方の私はなんとか浮きに持っていけたが、荒は断ラスで花登のブチ切りトップ。

〝死の前には灯る〟という言葉があるが、まさにこれは事実であった。

2日後の10月3日、肺がんのため死去。55歳没。

(文中敬称略)

花登筺(はなと・こばこ)
1928(昭和3)年3月12日生まれ、1983(昭和58)年10月3日没。若い頃から戯曲や放送台本を手がけ、58年に『やりくりアパート』がスタート。以後、『細うで繁盛記』『どてらい男』などの商魂ドラマが大ヒット。

灘麻太郎(なだ・あさたろう)
北海道札幌市出身。大学卒業後、北海道を皮切りに南は沖縄まで、7年間にわたり全国各地を麻雀放浪。その鋭い打ち筋から「カミソリ灘」の異名を持つ。第1期プロ名人位、第2期雀聖位をはじめ数々のタイトルを獲得。日本プロ麻雀連盟名誉会長。

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