(画像)New Africa/Shutterstock
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丹波哲郎“死後の世界”に傾倒してイメージ一変…「俺は霊界の宣伝マンなんだよ」

1989年1月に封切られた映画『丹波哲郎の大霊界 死んだらどうなる』は150万人超の観客を動員し、配給収入9億円を記録した。


これは同年17位の好成績で『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』や『レインマン』『ダイ・ハード』など洋画の大作がそろった中で、いかにも企画物的な映画がこれほどヒットするとは、原作、脚本から総監督まで務めた丹波以外の誰も想像していなかっただろう。


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丹波は『日本沈没』『砂の器』『二百三高地』『大日本帝国』など邦画の大作はもちろんのこと、世界的なヒット作『007は二度死ぬ』にも出演。テレビドラマでも『キイハンター』や『Gメン’75』(共にTBS系)などで存在感を発揮した。画面に映るだけで、どこか怪しげで裏ボス的な大物感が伝わってくる唯一無二の俳優だった。


そんな丹波は80年代に入ったあたりから、死後の世界に関する多くの著書を発表し、これに言及することが増え始めた。世間や芸能マスコミにおける丹波のイメージは、あくまでも世界的な大物俳優であったが、以前から共演者たちは丹波の「幽霊話」を聞かされていたという。


丹波が自身の映画宣伝も兼ねて「俺は霊界の宣伝マンなんだよ」と言いながら、バラエティー番組などに出演するようになると、同時期に隠し子騒動が持ち上がった。


愛人の存在自体はそれ以前にも知られていたが、丹波がタレント化したことで、芸能記者たちが近寄りやすくなった部分もあってのことだったろう。


押し寄せたマスコミ陣が「報道は真実ですか?」と尋ねると、丹波は「ああ、本当も本当、大本当!」と笑い飛ばし、「認知してるんだから隠し子じゃない」「府中のあたりに行ったら、タクシーの運転手だって、みんな知っている」などと言い放った。


東京・府中という地名を口にしたのは、愛人とされる女性がその頃に住んでいたからである。


結局、このスキャンダルは丹波にとって大きな傷にはならず、発覚後も仕事自体は順調だった。


だが、霊界のイメージが強くなりすぎたこともあって、それまでのような主役級の大物というよりは、ちょっとクセのある脇役、あるいはコミカルなCMでの起用が増えていったのも確かである。

愛妻の死が霊界研究に影響

もっとも、それは丹波にとって、大きな問題ではなかったのかもしれない。


もともと丹波は「キャスティングされるのは、その役に自分が合うと思われているからだ」という考えで、たとえ大役であっても特別な役作りをしなかったという。


それどころか、事前に台本を覚えることもほとんどなかった。このことから分かるのは、丹波がどんな役でも自分の素のままで演じていたということである。


丹波は誰とでも平等に接することを信条としていたという。これは「誰にでも丁寧に接する」ことではなく、誰が相手でも自分のペースを崩さないことだった。


『007』の撮影時には、遅刻が多い丹波を見かねて主演のショーン・コネリーがホテルの部屋まで注意に行くと、まったく悪びれる様子もなく「グッドモーニング!」と出迎えたというのだから、日本人離れしたスケールだ。


『人間革命』というシリアスな宗教映画で主役を演じたかと思えば、『ポルノ時代劇 忘八武士道』なる成人映画に主演したり、右腕と右目がない設定の丹下左膳を演じる際、「殺陣がやりにくい」という理由で左腕と左目がないことに変更したりと、まさに自由奔放な俳優生活を続けてきた。


そんな丹波の念願だった映画『大霊界』シリーズは3作まで続き、それと並行して霊界研究にも没頭。86年に立ち上げた『来世研究会』のホームページでは、今でも霊界にまつわる丹波の言葉を見ることができる。


「あの世が本当の世で、この世は仮の世に過ぎない」などと話していた丹波だが、97年に約50年連れ添った最愛の妻・貞子さんが亡くなると、人目をはばからず号泣。その頃から霊界について口にする機会がめっきり減っていった。


丹波は第二次世界大戦において陸軍航空隊に属していたことから、もしも戦争が長引けば特攻隊員として出撃する可能性もあった。


また、妻の貞子さんは結婚後に難病を発症して、長きにわたり車いす生活を余儀なくされていたという。


このように丹波は常に死が身近にあったからこそ霊界の存在を信じ、心の安寧を求めたのではないか。


それが妻の死という現実を突きつけられたとき、丹波は霊界にすがることの空しさを感じてしまったのかもしれない。