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若山富三郎“牌を握ったまま…至福の大往生!”~灘麻太郎『昭和麻雀群像伝』

若山富三郎“牌を握ったまま…至福の大往生!”~灘麻太郎『昭和麻雀群像伝』
若山富三郎“牌を握ったまま…至福の大往生!”~灘麻太郎『昭和麻雀群像伝』 (C)週刊実話Web

体質的になじめなかった長唄の世界から映画界に身を転じた若山富三郎は、新東宝、東映、大映と渡り歩くも芽が出ず、再入社した東映で遅咲きの花が開いた。

1968年の鶴田浩二主演『博奕打ち 総長賭博』(東映)における個性的な悪役造型に、苦節十余年の精華を見ることができる。以来、62歳で没するまでの間、主役、脇役を問わず映画、演劇、テレビで充実した役者人生を送った。

若山が東映に再入社した折、1つの大きな目標があった。それは、いつの日にか「山の御大」の「部屋」を取ってやるという強い意思だった。山の御大とは、東映の重鎮だった片岡千恵蔵のことであり、部屋とは、太秦の東映京都撮影所の俳優会館にあった千恵蔵の個室を指す。

俗に言う大部屋は30~40人だが、出世すると少人数の部屋へと昇格し、最後には個室をあてがわれる。限られた大物俳優が専有する個室の中でも、千恵蔵と市川右太衛門、両御大の特別ルームは別格であった。

山城新伍が花園ひろみと新婚生活をスタートさせたとき、その住居が千恵蔵の経営するマンションだったことから、麻雀好きの御大から2日とあけずに誘いがかかる。里見浩太朗も同じマンションに住んでおり、千恵蔵、里見、山城、そして若山というメンバーで卓が立つ。

千恵蔵は酒を1滴も飲まず、麻雀が唯一の道楽だったが、若山もまた酒より甘い物が好きで、暇さえあれば麻雀という点で御大と共通する部分があった。

ところが、さすがの若山も大先輩相手に緊張するのか、日ごろの豪快な雀風は影をひそめ、半荘2回も打つと早々に帰り支度を始める。それほど御大には一目も二目も置いていた。

煙草を減らしても甘い物はやめられない…

83年3月31日、千恵蔵が亡くなる。その後、しばらく空室だった御大の部屋に〈若山富三郎〉と染め抜かれたのれんが掛かった。若山を「おやっさん」と呼び、公私にわたって親交の深かった山城によると、そのときほど若山がうれしそうだったことは、後にも先にもなかったという。

しかし、そんな若山にも闘病の日々が待ち受けていた。御大の部屋に入室できた喜びも束の間、84年5月に心筋梗塞で倒れたのを皮切りにして、糖尿、腎臓と次々に病魔が襲いかかってきたのである。

ヘビースモーカーだった若山は、煙草を軽いものにしたり、本数を減らしたり、それなりの努力をしていたが、好物の甘い物はやめられない。羊かんなどは包装紙をはがすと、1本そのままムシャムシャと食べてしまう。

若山の体は人工透析を受けるほど悪化していたが、甘い物と麻雀好きは相変わらずだった。もともと肥満気味の体形の上に、病院通いの日常だから運動不足は疑いようがない。

太鼓腹はますます丸みを帯び、夏などは薄着でいるものだから、いやがうえにも大きなお腹が目立つ。むろん、麻雀を打つときもパンツ一丁で、女性と同卓していようが、そのスタイルを崩さなかった。

仲のよい麻雀仲間である女優の岸田今日子や山本陽子などは、目のやり場に困っていた。

「おやっさん、レディーの前ですから、何か着てくださいよ」

山城あたりがそう言っても、聞く耳を持たない。

「暑いんだから、しょうがないだろう」

そのうち、山本が目を輝かせながら。

「そうだ、新伍ちゃん」

「何ですか?」

「わたしたち、相撲部屋に来たと思えばいいんじゃないかしら」

山本の提案に、岸田も思わず手を叩いた。

物病みの若山から“大三元”

やがて病状の悪化とともに、若山は麻雀の場が立っても、横になっていることが多くなった。それでも耳元でジャラジャラと牌の音がすると、

「1回だけやるぞ」

と言って、うれしそうに牌をジャラジャラとかき混ぜる。

そんなある日、たまたま開始早々に、山城が若山から役満の大三元をアガってしまった。一度の振り込みで若山は哀れハコ点、ものの数分でケリがついた。このときのルールは〝飛びあり〟だったのだ。

「新伍さん、ダメじゃないですか。せっかく若山先生が病を押してやる気になっていたのに…」

弟子に注意された山城は、返す言葉が見つからなかったという。

92年4月2日、若山の自宅で、昼食会を兼ねた麻雀が行われた。ちょうど1週間前にコカイン所持事件の判決が下り、執行猶予付きとなった実弟の勝新太郎と夫人の中村玉緒、東映『極道』シリーズなどの共演で親しくなった女優の清川虹子らが集まった。

山城も呼ばれていたが、東京で舞台の仕事があったため、参加できなかった。山城は舞台の合間を利用して若山宅に電話を入れ、そのことを詫びた。

「おう、新伍か。おまえ来られなくて残念だな。勝と玉緒が来たし、今さっき清川まで来てくれたんだ」

思いのほか元気そうな若山の声。自分の病のほか、勝の麻薬事件で心労に耐える日々が長かっただけに、この集いはよほどうれしかったのであろう。

しかし、麻雀が始まるとすぐに、若山は牌を手に握ったまま倒れた。顔は紫色に変色し、勝らに付き添われて京大病院にかつぎ込まれたが、すでに心臓は停止していたという。

(文中敬称略)

若山富三郎(わかやま・とみさぶろう)
1929(昭和4)年9月1日生まれ~1992(平成4)年4月2日没。長唄の世界から1954年に新東宝に入り、翌年に映画デビュー。時代劇、任俠映画などで活躍した後も新境地を開く努力を続け、数々の演技賞を受賞した。

灘麻太郎(なだ・あさたろう)
北海道札幌市出身。大学卒業後、北海道を皮切りに南は沖縄まで、7年間にわたり全国各地を麻雀放浪。その鋭い打ち筋から「カミソリ灘」の異名を持つ。第1期プロ名人位、第2期雀聖位をはじめ数々のタイトルを獲得。日本プロ麻雀連盟名誉会長。

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