蝶野正洋 (C)週刊実話Web
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蝶野正洋『黒の履歴書』~タイガー・ジェット・シンの功績

プロレスラーとして新日本プロレスなどで活躍したタイガー・ジェット・シンさんが、社会や公共のために顕著な功績を挙げた人物に送られる「旭日双光章」を受勲した。


シンさんはカナダ在住でさまざまな事業を行っており、慈善団体を運営してチャリティーやボランティア活動を続けていることや、東日本大震災のときに義援金を送るなどの活動が評価されたようだ。


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シンさんは1973年5月に新日本プロレスのリングに初登場。それから(アントニオ)猪木さんと名勝負を繰り広げ、80年代には全日本プロレスに主戦場を移した。


90年代に入ってからは、猪木さんのデビュー30周年イベントや「グレーテスト18クラブ」に絡んだことで再び新日本プロレスに参戦するようになり、俺もこの頃に何度か試合をしている。


当時は大ベテランの域に達していたシンさんだけど、馳浩選手(現・石川県知事)と抗争して巌流島で決闘するなど、相変わらず大暴れしていた。


今回の受勲に関する記事を読むと、シンさんのことを「試合では暴れ狂うヒールだけど、リングを降りると寡黙な紳士」と評しているものが多かった。

プライベートまでヒールに徹していたが…

これはシンさんに限らず、あの頃の外国人選手はみんなそんな感じだったと思う。

それぞれ自国ではヒーロー的な存在でベビーフェイス。それが海外遠征に行くと、その団体のエースを叩きのめす極悪ヒールになる。


アンドレ・ザ・ジャイアント選手だって、来日当初は他のレスラーと口も利かないし、スタッフもファンも遠ざけていた。


でも、アメリカやヨーロッパでは大人気のスター。その2面性が当時の外国人レスラーのスタイルだったんだよ。


だから俺もヒールターンしたときは、孤独でいることを意識していた。マスコミに対する接し方も変えたし、宿泊先のホテルのロビーにファンが集まっていたりすると、若手に指示して追い払ったりしていた。


でも、それから数年後にアメリカでヒールユニット「nWo」に入ったときに、プライベートまでヒールに徹している選手が誰もいなかったんだよ。


当時はハルク・ホーガン選手が、リング上ではすごいブーイングを浴びていたけど、会場から出たらファンに対して明るくオープンに対応していた。


もう今の時代はこういう感じでいいんだなと思って、俺も自然な対応にシフトした。


いま思うと、自信がなかっただけなんだよね。リング外でもヒールに徹していないと、キャラクターが伝わらないんじゃないかと思っていた。


でも、試合でしっかりアピールできていれば、普段は自然体でも問題ないんだよ。


日本に来る外国人選手も、フラットな意識の選手が増えてきた。ビッグバン・ベイダー選手もリングを降りたらフランクで、暴れ回るような凶暴性はなかった。


ただ、昔はまだまだアジアへの差別意識があって、日本人を見下しているような外国人選手もいた。選手同士でも人種によって差別して、それぞれがいがみ合っていたりね。


シンさんはインドの出身で、いろいろな差別を受けてきた側の人だと思う。


そこを乗り越えて、プロレスラーとして世界中で活躍し、さらにビジネスでも成功したということも、勲章を受け取るに十分な功績だと思うよ。
蝶野正洋 1963年シアトル生まれ。1984年に新日本プロレスに入団。トップレスラーとして活躍し、2010年に退団。現在はリング以外にもテレビ、イベントなど、多方面で活躍。『ガキの使い大晦日スペシャル』では欠かせない存在。