(画像)GBJSTOCK/Shutterstock
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元NHKアナウンサー・鈴木健二「私に1分間時間をください」~物議を醸した『あの一言』大放言うらおもて~

NHKの鈴木健二アナが司会を務めた『クイズ面白ゼミナール』は、1981年4月のスタート時、木曜20時からの放送だった。


これが翌年、日曜(19時20分~20時)に時間帯が変更されると、19時から『きょうのニュース』→『面白ゼミナール』→大河ドラマという流れが多くの家庭で日曜夜の定番となり、82年9月に同番組はクイズ番組の視聴率として歴代最高の42.2%を記録している。


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「知るは楽しみなりと申しまして~」というお決まりのフレーズから始まる同番組で、鈴木は司会進行に加えクイズの正解が出た後の解説役まで担当し、その大きな黒縁メガネのインパクトも相まって、全世代的な知名度を得ることになった。


それまでの局アナの仕事というと、主にニュースの読み上げやナレーション、スポーツ実況などであり、番組の司会を務める際は、あくまでも進行役に徹していた。


ところが『面白ゼミナール』の鈴木はゲストのタレント勢より多くしゃべり、誰よりも存在感を発揮した。


そのため「でしゃばりで偉そうなアナウンサーだ」と、嫌味に感じる視聴者も少なくなかった。


だが、鈴木は同番組のため自腹で何十冊もの書籍を購入し、扱うテーマを予習して、番組スタッフの誰よりも詳しい状態で収録に臨んでいたというから、そんな鈴木が目立ってしまうのも仕方ないことだったか。


このような鈴木のスタイルは、以後のアナウンサーたちに新たな道筋をつけるものとなり、フリーアナの徳光和夫は鈴木の死に際して、「私が生ある限り、あれほどのアナウンサーに出会うことはない」とまで話している。


一部に鈴木を煙たがる視聴者はいたものの、全体を見れば鈴木の博覧強記ぶりに好感を抱く人のほうがはるかに多く、82年に刊行した著書『気くばりのすすめ』(講談社)は、文庫版まで含めると400万部以上を売り上げる大ベストセラーとなっている。


まだ局アナが自著を出すことは珍しかった時代で、「国民から受信料を取っているNHKの社員が、個人の金儲けをするのはけしからん」などと、やはり批判的な声も聞かれた。


しかし、この本を出版した理由はもっと別にあって、当時の鈴木は腎臓に重い病気を抱え、仕事ができなくなる恐れがあった。


そのため、まさかに備えて家族にお金を残したいという思いから、入院中にベッドの上でこの本を完成させたのだという。


番組と書籍の大ヒットにより国民的存在となった鈴木は、83年から大みそかの『紅白歌合戦』で白組司会を任される。


その2年目、84年の紅白は先に引退を発表していた演歌歌手の都はるみが、ラストステージを務めることで大きな話題を集めていた。

“本当のハプニング”を誘発

本番当日、大トリの都は『夫婦坂』を歌唱後、深くお辞儀をしたまま体を震わせていた。

その姿を見て観客席から、大きな拍手とともに「アンコール」の大合唱が巻き起こる。


すると、鈴木は唐突に舞台中央へ飛び出し、客席に向かって「私の話を聞いてください!」と呼びかけた。


そして、都が事前に『夫婦坂』を歌って燃え尽きたいと語っていたことを明かした上で、「私に1分間時間をください。今、交渉してみます」と後方で涙ぐんでいる都に駆け寄る。


そして、彼女の肩を深く抱きながら「1曲歌う気力がありますか?」と問いかけた。


すると都の代表曲である『好きになった人』のイントロ演奏が始まり、鈴木が「お願いします!」と繰り返すと、都は涙を拭きながら「はい」とうなずきマイクへ向かった。


鈴木はその背後から寄り添い「はるみちゃん、いこう!」と声をかけ、正真正銘のラストソングが始まった…。


実のところ、この一連のくだりは元から予定されていたが、ハプニング的なリアリティーを高めたいということで、このときの鈴木のセリフは台本がないアドリブだったという。


こうした演出が功を奏し、瞬間最高視聴率は80%を超え、番組全体でも70%超の高視聴率(ビデオリサーチ調べ、関東地区)を記録した。


しかし、その一方で都が2曲目を歌い出すまでの間が、どこか押しつけがましい鈴木の独り舞台となったことで、「なんで都は紅組なのに、白組の鈴木がしゃしゃり出てきたんだ」などと批判的な声もあった。


また、歌唱後にはドタバタの展開に焦った総合司会の生方恵一アナが、都のことを「ミソラ」と呼ぶ本当のハプニングまで起きてしまった。


そのせいもあったのか、翌年の紅白は視聴率が大幅ダウン。これ以降、70%を超えたことはない。


鈴木はこの85年を最後に紅白の司会を降り、88年に定年退職すると、その後はテレビに出演することがほとんどなかった。


これはもしかすると、「後輩アナたちの邪魔をしたくない」という鈴木流の「気くばり」だったのかもしれない。
鈴木健二◆すずきけんじ 1929年1月23日生まれ~2024年3月29日没。東京都出身。東北大を卒業し、1952年にNHK入局。東海道新幹線の開通やアポロ11号による人類初の月面着陸など、同局の顔として歴史的な中継を担当した。著書も多く、82年に刊行した『気くばりのすすめ』は大ベストセラーになった。映画監督の鈴木清順は兄。