野球選手が甲子園制覇など輝かしい実績とプロ入り後のパッとしない成績を比べて、「高校時代が全盛だった」といわれることはよくあるが、本当に能力的な意味で高校時代が最高と評価され、それが信じられているのは江川卓だけだろう。

【関連】女優・山本陽子「青春の1ページとして思い出を残しておきたい」～物議を醸した『あの一言』大放言うらおもて～ ほか

作新学院時代、甲子園で江川が登板したうちの4試合で主審を務めた永野元玄氏は、「ホップしてくる球筋。こんなピッチングは見たことがない」と仰天している。

江川自身が「私の最高の出来でした」と語る高校2年秋、関東大会準決勝の銚子商業戦では、相手打者がバントで揺さぶろうにもボールを前に転がすことすらできず、20奪三振の快投を演じている。

高校3年の秋を迎え「慶應大学進学」を宣言した江川は、73年ドラフトで阪急ブレーブスから1位指名を受けるも、これを拒否。記者からの「大学進学を隠れみのにして、意中の球団からの指名を待っていたのではないか」という質問を否定したが、そもそも慶大への進学は江川本人の希望ではなかった。

実は先に早稲田大学への推薦入学が決まっていて、本人もそのつもりでいたのだが、父親など周囲が強引に慶大の一般受験を勧めたのだという。おそらく何かしらの密約があったのだろう。

ちなみに、当時の読売巨人軍の正力亨オーナーは慶大出身である。

ところが、家庭教師をつけて勉強合宿までして臨んだ受験は、あえなく不合格となる。この当時は多くの大学で不正受験問題が持ち上がっており、江川がすんなり入学すれば、どうしても怪しまれてしまう。

そのため、慶大側が直前に「野球部セレクションの加点なし、テストの点数のみ」という合否判定に変更したともいわれている。

その後、なんとか法政大学へ滑り込んだが、これも周囲の差配があってのことだろう。

東京六大学リーグでは通算47勝と奪三振443は歴代2位、17完封は現在でも最多記録に君臨するなど、「怪物」の名をほしいままにした江川だが、77年ドラフトでクラウンライターライオンズから1位指名を受けると、またもや入団を拒否して米国へ留学。社会人へ進むと入社から2年間はプロ入りできない規定があり、それを回避するための〝野球浪人〟であった。

78年10月、クラウンが西武へ身売りしたことで、西武グループは威信を懸けて獲得を目指したが、江川が首を縦に振ることはなかった。

西武の宮内巌球団社長との交渉で、江川は「自分の周囲の人間の顔を潰すため、入団できない」と話したという。

そして同年11月21日、球界を揺るがす〝空白の1日事件〟が起こる。

当時の野球協約上では、ドラフト前日に限り江川は完全な無所属状態となっていて、確かにその日に巨人と契約することは協約に反しない。

とはいえ、抜け穴をついた姑息な手口には違いなく、セ・パ両リーグ会長と日本野球機構（NPB）コミッショナー事務局による協議の結果、江川と巨人の契約を無効とする判断が下される。

これに反発した巨人が翌日のドラフトをボイコットすると、そこで阪神タイガースが江川の指名権を獲得した。

幻に終わった“阪神の江川”

しかし、巨人側に江川を手放すつもりはまったくない。阪神も巨人をライバルとする立場上、簡単に折れるわけにはいかない。

結果、巨人のリーグ離脱という最悪の事態を回避するため、コミッショナーが「江川はいったん阪神に入団し、その後に巨人とトレードをする」という提案を〝強い要望〟として打ち出し、時間はかかったが双方の合意に至った。

79年2月1日、巨人はエース格の小林繁を阪神に放出し、代わって江川が入団することを発表。入団会見の冒頭で、江川は「興奮しないでやりましょう」と切り出し、「僕は一貫して人に迷惑をかけないという信念でやってきたつもりだが、結果的には小林さんとのトレードという形になった」と、心情を吐露した。

その席で、自身のルール破りへの反省がないことに激高した記者が、「自分さえよければ、人はどうなってもいいのか」と詰め寄ると、江川は「そう興奮しないでください」と、あくまでも冷静に対応。江川は終始、口調も態度も落ち着いたものだったが、それが逆にマスコミやファンの感情を逆撫でして、一気に国民的悪役となってしまった。

ただ、江川にしてみれば、巨人に入団するまでのお膳立ては、すべて自分の意思を離れて周囲が行ったことであり、それを他人事のように受け止めるのも仕方のないところではあった。

入団時の大騒動のせいで、引退後に巨人監督就任の話が持ち上がっても、OBなどから強く反対され続けるなど、江川もまた被害者の一人だったと言えようか。

江川卓◆えがわすぐる 1955年5月25日生まれ。福島県出身。作新学院時代は公式戦でノーヒットノーラン9回、完全試合2回を達成し、73年に春夏連続で甲子園大会に出場。法政大学時代は東京六大学リーグ4連覇に貢献。巨人入団後は在籍9年間で、MVP1回、最多勝2回、最優秀防御率1回、最多奪三振3回という成績を残した。