『猪木のためなら死ねる! 最も信頼された弟子が告白するアントニオ猪木の真実』宝島社
『猪木のためなら死ねる! 最も信頼された弟子が告白するアントニオ猪木の真実』宝島社

『猪木のためなら死ねる! 最も信頼された弟子が告白するアントニオ猪木の真実』著者:藤原喜明~話題の1冊☆著者インタビュー

藤原喜明(ふじわら・よしあき) 1949年、岩手県生まれ。’72年に新日本プロレスに入門。新人時代からカール・ゴッチに師事し、のちに“関節技の鬼”と呼ばれる。’91年に藤原組を設立。藤原組解散後は、フリーランスとして新日本を中心に多団体に参戦。今も現役レスラーとして活躍中。
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――藤原さんと猪木さんの出会いのきっかけを教えて下さい。


藤原 田舎の農家の長男でここで一生を終えるのは嫌だと思って上京し、横浜の市場で働いていたとき、ボディービルに通い始めたら、会長が金子武雄さんという元プロレスラーだった。その金子会長が「おう、猪木。コイツを頼むな。お前の若い頃にそっくりだよ」って紹介してくれたんだけど、猪木さんがあからさまにイヤ~な顔をしてね。「こんなのと一緒にすんなよ…」って。あのときの顔は50年たった今も鮮明に覚えてるよ(笑)


――猪木さんの付き人として多くの他流試合などに同行したそうですね。一番記憶に残っている試合はなんですか?


藤原 アクラム・ペールワン戦(1976年)だな。パキスタンという未知の国に乗り込んでいったら、ガチガチの闘いをペールワンが挑んできたんだ。目に指を入れるし、噛みついてくるしで、まるで果たし合いだった。周囲には銃を持った軍隊がいて、すごい雰囲気。そんな中で猪木さんはアームロックで相手の腕を脱臼させて勝った。その瞬間、大観衆が立ち上がったため、軍隊が一斉に銃を構えたんだよ。俺は「猪木さんが撃たれたら大変だ」と思ってね。とっさに猪木さんの前で両手を広げたんだ。俺が盾になるつもりだった。「この人のためなら死ねる」と思える人に出会えたのは、幸せだったと思うよ。

弟子が明かす「秘話」と「愛憎」のすべて

――晩年の寝たきり状態の猪木さんをご覧になって、どのような思いがありましたか?

藤原 猪木さんは自分の闘病生活を配信していた。「猪木さんが弱った姿は見たくない」っていう人も多かったと思うけど、いいじゃない。スーパースターが最後にやせ細って、それでも「元気ですかーっ!」ってメッセージを発信し続けてさ。あれも一つの男の死に際だったんじゃねえかな。昔、カール・ゴッチさんがよく言ってたんだよ。「誰でも年を取る。しかし、必ずしも年寄りになる必要なんかない」って。だから猪木さんは年寄りにはならずに亡くなったんだよ。亡くなったときはさすがに落ち込んだよ。おふくろが亡くなったときよりもショックなくらいだったからね。


――藤原さんにとって、猪木さんとはどんな人物だったのでしょうか?


藤原 猪木さんは、恩人であり師匠であり教祖様だな。プロレスラーとして今の俺があるのは間違いなく猪木さんのおかげだから。今は「本当にお疲れさまでした」「素晴らしい思い出をありがとうございました」という気持ちだけだな。


(聞き手/程原ケン)