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大山康晴“将棋で燃焼した頭を麻雀で整える”~灘麻太郎『昭和麻雀群像伝』

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将棋史上、最強の一人として名を残す大山康晴は、特に受けの強さには無類のものがあった。本人が「攻めるより守るほうが好きです」というだけあって、堅固な守備力は鉄壁を誇っていた。

相手方に攻めるだけ攻めさせ、大山は防戦一方。素人目には苦戦に映る局面だが、攻める側は次第に力を失っていく。やがて攻め手がなくなり、気づいてみれば、自陣は目を覆うほど手薄という状況に陥っている。

これでは大山に仕掛けられたら、ひとたまりもない。哀れ投了、勝負あり! という将棋がどれほどあったことか。

麻雀はいくら守りが強く、一度も放銃しなくても、和了しない限りは勝者にはなれない。将棋の場合、大山ほど受けが強ければ、攻撃側が自滅してしまう。ほとんど攻めることなく勝者になれるのである。

百年に一人とうたわれた天才棋士は、別の勝負事をやらせても強かった。

将棋指しの二大趣味といわれるのが、囲碁と麻雀である。ともに将棋で燃焼した頭脳をリフレッシュさせる効果があり、対局後に碁盤、あるいは雀卓に向かう棋士は数多い。

もっとも、「せんちゃん」のあだ名で親しまれている現役棋士の先崎学などは、対局後などとはいわず、暇さえあれば牌を握る。13歳で麻雀を覚え、15歳でパチンコ、16歳で競輪、17歳で競馬を始めたほどの早熟ギャンブラーである。大山時代にはとても考えられない破天荒ぶりだが、それでも若くして八段(現在は九段)になったのだから、文句なしであろう。

大山の全盛時代、碁を打たせても超一流と言われたのが、大山を筆頭に花村元司、升田幸三、丸田祐三であった。

万事において隙がない強さ

花村は掛け碁で鳴らした根っからのギャンブラーで、升田は唯一の趣味が囲碁だった。大山は先輩にあたる升田とは生涯のライバルで、将棋では150局以上も指したが、なぜか囲碁の手合わせはなかったという。

麻雀のほうの4強を挙げると、こちらも大山、丸田に、あとは加藤博二、芹沢博文であろう。盤外での活動でも知られた芹沢は、あらゆる室内遊技に精通していたが、中でも雀豪として鳴らした。

丸田は囲碁でも名を連ねているが、ともに本格派で、とりわけ麻雀は強すぎて相手がいないと言われた。大山も丸田に負けないくらいの雀力を持っていたが、こちらはあくまでも将棋のペース作りのためである。

タイトル戦は地方の高級旅館で行われるのが常だが、1日目の対局を終えると、大山はすぐに床につかない。あらかじめ用意された雀卓にどっかと座る。若手棋士や将棋記者を呼び集め、半荘2回ほど打つ。そのため、立会人を務める棋士については「麻雀を打てる人にしてほしい」と、リクエストしていたという。

大山はタイトル戦を戦っている最中にも控室に顔を出し、その場にいる棋士や観戦記者たちに「早く仕事(麻雀)をしなさい」と、場を立てさせようとするほどであったが、長時間の麻雀は翌日の将棋にさしつかえるので、2時間以内がベスト。大山は対局で疲れきった頭を空っぽにする目的で、麻雀を楽しんでいた。

ところが、楽しむといっても相当に強い。相手の手の内を読むのは得意だし、勝負勘もずば抜けている。相手3人の点棒状況が、100点棒1本の狂いもなく頭に入っており、万事において隙がない。

守りは強いし、攻めの急所も心得ている。若手の棋士連中と記者たちは、ここでも名人の勝負強さに脱帽せざるを得ない。どんなに遅くても、夜の12時前には卓を離れる。大山が席を立った後、誰かが忘れ物に気づいて部屋まで届けに行ったところ、すでに高いびきで爆睡中だったという。

想像を絶する勝負への執念

将棋の疲れを巧妙に麻雀に移行させ、心身ともに疲労の極限に達すると寝てしまう。この傑出した切り替え術が、不滅の大山時代の原動力になったのかもしれない。

大山から名人位を奪取した中原誠の師匠は高柳敏夫名誉九段で、前述した芹沢は同門の兄弟子にあたる。その日はある新聞社の企画があり、芹沢、米長邦雄、勝浦修ともう一人で、棋士の麻雀対局を、という趣向。私が観戦記を書くことになっていた。

すると、麻雀好きの高柳が顔を出し、記者連中と懇談を始めた。

高柳「やはり一流の棋士ともなると、相手の財布を見なくても、この人はいくら持っているか分かる。だから交通費を残して帰してやるんです!」

と麻雀自慢。

記者「伏せてある牌も分かるんですか?」

高柳「一度打ったら、節目で分かります。なにしろ記憶力、読みに関しては、こちらもプロですからね」

高柳の腕前はともかく、これまで私は何十人となく将棋や囲碁の棋士とも対局してきているが、麻雀における真の強者はそう多くはない。どちらかと言うと、将棋のプロのほうが戦いやすい。なぜなら、こちらがどんな手か全体を読んでくれて、危険牌と分かると勝手に降りてくれるからだ。

それはともかく、麻雀ではリラックスを心がけていた大山だが、棋士としては想像を絶する勝負の世界に生きていた。

「プロの世界では、高段者になって当たり前なんです。単なる高段者ではクズ。それから先が勝負なんだ」

かつて大山が残した言葉である。

(文中敬称略)

大山康晴(おおやま・やすはる)
1923(大正12)年生まれ~1992(平成4)年没。1935年、木見金治郎九段に入門。29歳で名人となり、数々の記録を樹立。十五世名人、永世十段、永世王位、永世棋聖、永世王将の称号を得る。90年、将棋界初の文化功労者。

灘麻太郎(なだ・あさたろう)
北海道札幌市出身。大学卒業後、北海道を皮切りに南は沖縄まで、7年間にわたり全国各地を麻雀放浪。その鋭い打ち筋から「カミソリ灘」の異名を持つ。第1期プロ名人位、第2期雀聖位をはじめ数々のタイトルを獲得。日本プロ麻雀連盟名誉会長。

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