島田洋七 (C)週刊実話Web
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ザ・ドリフターズとの地方営業の思い出~島田洋七『お笑い“がばい”交遊録』

以前、司会を務めていた『笑ってる場合ですよ!』の生放送直後に、ヘリコプターで移動した話を書きましたね。東京・木場のヘリポートから茨城県のゴルフ場での番組出演のためにね。漫才ブームの頃は忙しくてヘリコプターで移動したことが何度かありましたよ。


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とある日曜日も番組生放送を終えると、木場のヘリポートから茨城県にある日立製作所へヘリコプターで向かったんです。ヘリコプターが特別好きなわけではないですよ。その日は、日立製作所の社員やその家族を慰労するイベントへの出演だったんです。


例年だと、バスでどこかの観光地へ出かけていたようなんですが、あれだけの大企業ですから、出費もバカにならない。そこで俺らとザ・ドリフターズの2組がイベントに出演することになった。ヘリコプターで俺らを呼んでも、そのほうが安かったらしいです。

地方営業にトラック2台のコントセット

会場に到着すると、10トントラックが2台止まっていた。ドリフは会場の大きな体育館にテレビと同じようなセットを組んでいましたね。ドリフはセットを組んで稽古を数日間して本番に臨むから、営業は引き受けないとばかり思っていたから驚きましたね。

挨拶するため楽屋へ行くと、ドリフの皆さんが麻雀をしていた。すると加藤茶さんが「賭けてない。賭けてないよ。何も賭けてない」と必死に弁明するから何事かと思ったんです。その少し前、ドリフが待ち時間に楽屋で賭け麻雀をしていて、警察から注意を受けたと週刊誌に載っていたことを思い出しましたよ。


いかりや長介さんからは「ごめんね。後ろにセットを組んであるから、その前でしか漫才ができないんだよね」。そう言われても、漫才はセンターマイク1本さえあれば、どこでもできますから気にしませんよ。売れない頃なんて盆踊りの営業で櫓の上で漫才をしたこともありましたからね。


イベントでは最初が俺らB&Bの出番だった。マイクの前に立つと、上手、下手両方の袖からドリフのメンバーが見ているんですよ。芸人になる前から、テレビで見て憧れていた人たちと同じ舞台に立ち、袖から見られている。


普段、緊張しない俺も変な緊張感に包まれましたね。ドリフの楽屋に挨拶くらいは行けるかもしれませんけど、仕事をドリフに見られる経験はそうそうないでしょ。無事に漫才を終えると、「やっぱり面白いね。人気があるわけだ」と褒めてもらった。


次はドリフの出番。パトカーが屋根に突っ込む有名なコントでしたよ。ドリフもコントを終え、楽屋に戻り、再度挨拶に行ったんです。すると高木ブーさんからこう話しかけられたんです。「いいね。うちは5人いるし、セットも組まないといけないからね。2人で(ギャラを)分けるから、絶対に君たちのほうが儲かってると思うよ」。人数の問題ではないと思いますけど、あれだけのセットを運んで、大道具さんが組むのはお金がかかりますよね。


結局、大掛かりなコント番組がなくなったのは、視聴率よりも費用がかかるからと聞いたこともありますね。


それにしても漫才の途中、洋八のほうを見ると、その先の舞台袖にはドリフのメンバーがいる。なかなかない不思議な光景でした。


島田洋七 1950年広島県生まれ。漫才コンビ『B&B』として80年代の漫才ブームの先駆者となる。著書『佐賀のがばいばあちゃん』は国内販売でシリーズ1000万部超。現在はタレントとしての活動の傍ら、講演・執筆活動にも精力的に取り組んでいる。