
日本プロレス史における最大のライバルストーリーが、アントニオ猪木VSジャイアント馬場であることに異論はないだろう。これについては「馬場を倒してトップに立つ」という猪木の野望から発せられたものと見られがちだが、果たして本当にそうだったのか?
1971年の日本プロレス『第13回ワールドリーグ戦』は、日本人VS外国人の2回戦総当たりで行われ、全戦終了の時点で、日本勢ではジャイアント馬場とアントニオ猪木が同点トップ。外国人もアブドーラ・ザ・ブッチャーとザ・デストロイヤーが、トップに並んでいた。
通常であれば決勝は日本人VS外国人となることから、馬場と猪木の直接対決によって決勝進出者を決めるのが筋であろうが、会社としては日本テレビで馬場、NET(現在のテレビ朝日)で猪木を軸とした放送をしていることもあって、両雄を並び立たせたい意向が強かった。
そこで、2年前に猪木が初優勝を飾った第11回大会と同様に、まず日本人と外国人が闘い、そこでの勝ち負け次第で優勝者が決定するという形式となった。
馬場と猪木が共に勝利すれば、両者による優勝決定戦となるわけだが、くじ引きによって先にデストロイヤーと闘うことになった猪木は、足4の字固めを極められたまま場外転落して両者リングアウトに終わる。
続いて登場した馬場は、ブッチャーがジャンピング・エルボー・ドロップを誤爆したところをすかさず抑え込み、3カウントを奪取。同リーグ戦の2連覇を飾ったのだった。
初々しさの感じられる猪木のコメント
馬場がブッチャーと闘っている頃、猪木は控室に記者を招くと、突如として馬場への挑戦を表明する。
「俺は一時的な感情でこれを言ってるんじゃない。冷静なんですよ。ワールドリーグ戦で優勝できなかった腹いせで、こんなこと言ってるんじゃない」
「俺は馬場さんの保持するインターナショナル・ヘビー級王座に挑戦したい。これは公式声明です」
そうして「負けた場合はどうなるのか?」との記者からの問いかけには、「負けたら練習をして、また挑戦する」と答えている。
このとき猪木28歳。後年に「出る前に負けることを考えるバカがいるかよ!」とアナウンサーにビンタを食らわせたのと比べると、実に初々しさの感じられるコメントである。
しかし、まだ馬場は闘っていたのだから、試合の結果次第では猪木VS馬場が、この日のうちに実現する可能性もわずかながら残っていた。それでも猪木が「優勝できなかった」と言っているのは、この時点で、馬場がブッチャーに勝って優勝する結末を分かっていたことになる。
その裏で横紙破りの馬場への挑戦を表明することは、いくらか矛盾するようだが、かねてから猪木は親しい記者に、「ファンが俺と馬場さんとの対決を望んでいる。ルールを盾にして日本人同士の対決から逃げている場合じゃないと思う。こんなことを繰り返していたらファンは逃げてしまうよ」などと漏らしていたという。
馬場は「街の喧嘩じゃあるまいし」と不快感
この言葉をそのまま受け取るなら、馬場への挑戦は「猪木自身がトップに立ちたい」という功名心によるものではなく、あくまでもファンを第一に考えて「対戦を実現させること」に重きを置いたものだったことになる。
無論「やれば勝てる」との自信もあっただろうが、たとえ負けたとしても、対戦すること自体がプロレス界の発展につながるという考え方は、のちの「プロレスに市民権を!」との思想にも通じるものがある。
しかし、実際に猪木の発言が業界の将来を考えたものであったとしても、決勝戦当日にそんな話を持ち出してきて、力道山に並ぶ5度目のワールドリーグ戦優勝という快挙に水を差されたのでは、馬場としては面白いはずがない。
猪木の挑戦表明を知らされた馬場は、「街の喧嘩じゃあるまいし、『やりたい』『よし、やろう』でタイトルマッチができるものではない」と不快感をあらわにしている。
その後に「タイトルを管理するのは団体だ。団体が認可するなら私はやろう」と続けたのは、王者としてのプライドか、あるいはプロレスをビジネスと捉えて、「会社(日プロ)が猪木をトップと認めるなら、それもやむなし」という考えからのことであったか。
猪木の表明を受けて、コミッションや日プロ幹部の間では賛否両論があったとされるが、その結論は「現段階では時期尚早」というものだった。
《文・脇本深八》
アントニオ猪木
PROFILE●1943年2月20日生まれ。神奈川県横浜市出身。身長191センチ、体重110キロ。 得意技/卍固め、延髄斬り、ジャーマン・スープレックス・ホールド。