島田洋七 (C)週刊実話Web
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坂田利夫さんとの思い出(前編)~島田洋七『お笑い“がばい”交遊録』

昨年末、坂田利夫さん(享年82)がお亡くなりになりました。俺も2月10日で74歳になる。芸人以外でも会ったことのある芸能人の訃報に接する機会が増えました。辛いですね。


特に、吉本の先輩芸人さんだと、飲みに行ったりしたことはなくても劇場の楽屋で何百回と話したことがある人ばかり。しかも、坂田さんはあれだけ明るい芸風でしたから、ニュースを聞いたときは落ち込みました。やはり、坂田さんと間寛平は動きだけで笑いを取ることができる、世界でも数少ない芸人です。俺もいろんな芸を研究しては参考にしましたけど、坂田さんの芸だけはどうにも真似できませんでしたよ。


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坂田さんに出会ったのは、俺が進行係として吉本で働き始めた頃です。当時、前田五郎さんと坂田さんの漫才コンビ『コメディNo.1』はすでに売れていました。「進行係に入りました徳永です」と挨拶すると「頑張りや! 今日は出番が終わったら東京で収録やねん」、「じゃあ舞台は15分きっちりでおりますね?」、「そうや」と会話したのを覚えていますよ。


俺がまだ売れていない若手の頃、坂田さんに会うと、いつも「俺はいま売れているからものすごい金があんねん」、「そうなんですか」、「好きなもんなんでもこうたるから言うてみい」となるんです。口ごもっていると「俺が言うから選べ。靴ベラと耳かきのどっちがええ?」。20回以上は聞かれたと思いますよ。


ただ、一度も買ってもらったことはありません。一種の挨拶代わりですね。当時、劇場に出入りしていた若手漫才師はほとんどが関西圏出身者。俺だけ広島出身でしょ。だから印象が強かったんでしょうね。

自宅の近所でイベントが…

以前も書きましたけど、俺が徐々に舞台に上がるようになると、一緒にインフルエンザワクチン接種に行き、飲み屋で支払うかのように病院の受付で「チェックして!」と坂田さんは言ってましたよ。楽屋へ戻ると「洋七にワクチン奢ったったわ」と自慢気に話していたのを思い出しますね。

1990年代に入ると、俺は講演中心の活動に移っていったでしょ。そして、いま住んでいる佐賀に引っ越した。ある日、自宅の近所にある500人ほど収容できるホールでコメディNo.1さんや他の吉本の芸人が来てイベントが行われることがわかった。宝くじの収益金は、都道府県や市町村にも分配される。そのイベントだったんです。


当日、吉本のマネジャーが自宅へ来て嫁に「お時間あれば楽屋へ遊びに来てください」と言い残していた。2000年代初めだったと記憶していますけど、当時の俺は講演会で全国を飛び回っていて大忙しだったから、ちょうど自宅を留守にしていたんです。嫁は「もう少しで戻ってくると思うんですけど、もし良かったら坂田さんに家へ来てくださいとお伝え下さい」と頼んでいたようなんです。


俺が佐賀に着いたら、すでにコメディNo.1さんの出番は終わっている時間だった。仕方なく家にいると、町長が来て「住んでいる町でとれる米やイチゴを機会があれば宣伝してください」などと話していた。そこに玄関が開いた。坂田さんだったんです。 (後編へ続く)
島田洋七 1950年広島県生まれ。漫才コンビ『B&B』として80年代の漫才ブームの先駆者となる。著書『佐賀のがばいばあちゃん』は国内販売でシリーズ1000万部超。現在はタレントとしての活動の傍ら、講演・執筆活動にも精力的に取り組んでいる。