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原田雅彦「俺じゃないよ、みんななんだ」~心に響くトップアスリートの肉声『日本スポーツ名言録』――第85回

Tyler Olson
(画像)Tyler Olson/Shutterstock

日本で二度目の冬季大会となった1998年の長野五輪で、日本代表は金5、銀1、銅4、国別順位7位と好成績を残した。そんな中でも特に多くの人々の目を引いたのが、スキージャンプ団体ラージヒルにおける原田雅彦の姿だった。

「ふなき〜、ふなき〜」と弱々しい声で呼びかける原田雅彦。長野五輪の名場面として、真っ先にこれを思い浮かべる人は多いだろう。

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1998年2月17日、長野五輪スキージャンプ団体ラージヒルで、日本チームは3人目のジャンパーを務めた原田が飛び終えた時点で1位。最終ジャンパーの船木和喜によほどのミスがなければ、金メダルを獲得できる状況にあった。

先の個人ラージヒルで金メダルを獲得していた船木なら、問題なく勝利を決めてくれるはず――白馬ジャンプ競技場に詰めかけた観客やテレビ中継を見守る視聴者の多くはそんな気持ちだったが、競技者からすれば簡単な話ではない。ジャンプ台から飛び出す際のわずかな角度や力の入れ具合で結果は大きく異なるし、ベストのタイミングで飛んだとしても風の吹き方ひとつでまったく飛距離が出ないこともある。

原田自身も、このときまでに何度も自身のミスや多くの不運に泣かされてきた。

92年のフランス・アルベールビル五輪で初の日本代表に選ばれた原田は、個人ラージヒルで日本勢では3大会ぶりとなる4位入賞。94年のノルウェー・リレハンメル五輪では、金メダルの最有力候補と目されていた(ちなみに同大会は、それまで同年開催だった夏冬五輪が、夏と冬で2年おきの開催に変更されたため、前大会から2年後に開催されている)。

失敗ジャンプで悪夢の銀メダル

団体ラージヒルで日本は最後の原田のジャンプを残し、2位のドイツに大差をつけての首位。72年の札幌五輪ジャンプ70メートル級(現在のノーマルヒルに相当)で表彰台を独占した〝日の丸飛行隊〟の復活を日本全国が心待ちにしていた。

原田の直前にドイツのエース、イェンス・バイスフロクが135.5メートルの大ジャンプを決めてはいたが、それでも原田が105メートル以上を飛べば優勝が決まる。普段の力量からすれば問題のない数字のはずだった。だが、金メダルを目前にした原田は極度の緊張に包まれ、踏み切りのタイミングを外してみるみる失速。あろうことか97.5メートルの失敗ジャンプに終わってしまった。

これにより原田は「金を逃した戦犯」とバッシングされ、また同大会では個人のノーマルヒル、ラージヒルでも2本目を失敗して順位を落としていたことから、プレッシャーに弱いというイメージがついて回ることになった。

このショックで一時は飛行フォームを崩し、スランプに陥った原田だが、それでもなんとか持ち直して、前回の雪辱を果たすべく長野五輪に臨んだ。競技で使用する白馬のジャンプ台は、幾度にもわたる合宿練習で熟知している。体調も含めて万全の状態だった。

降雪と吹雪の中決死の大飛行!

原田は、個人ノーマルヒルの1本目で最長不倒を出してトップに立ったが、2本目は悪天候による中断などの不運がたたって失敗に終わり、結果は5位。個人ラージヒルも1本目で踏み切りをミスして、6位スタート。しかし、これで開き直ったところもあっただろう。2本目には最長不倒の特大ジャンプを披露し、辛くも3位に滑り込んで銅メダルを獲得した。

そうして迎えた団体戦。原田の1本目は79.5メートルで、日本は首位から2位に転落する。周囲には「またしても失敗か…」と悲観的な空気が流れた。だが、このとき原田の気持ちはまったく折れていなかった。

「あのジャンプは失敗じゃない」

低空飛行の理由は、悪天候のせいだと明確に分かっていた。次の船木も同様に飛距離が伸びず、日本の順位は4位まで落ちたが、それでも首位との差はわずか。数字上では十分に巻き返しが可能だった。

だが、そんな日本チームの前に悪天候の壁が立ちはだかった。大量の降雪と吹雪のせいで、大会運営側は1本目終了時点での競技中止を検討。このまま終われば日本の順位は4位で確定し、メダルを逃すことになる。中止か、続行か。判断は25人の日本人テストジャンパーたちに委ねられた。そこで転倒などが出て危険と判断されれば、競技は中止になる。しかし、テストジャンパーは全員が見事に飛び切ってみせた。

競技が再開されると、日本は1人目の岡部孝信が見事なジャンプを決めて首位に返り咲き、2人目の斎藤浩哉もこれに続く。3人目の原田は「両足を複雑骨折してもいい」と覚悟を決め、ジャンプ台から力強く飛び立った。

テレビの実況が「落ちるな原田!」「立て! 立ってくれ!」と絶叫する中、飛距離はグングンと伸びて137メートルの最長不倒を記録。プレッシャーから解放された原田は全身が脱力し、立っていられないほどだった。原田が嗚咽まじりに発した「ふなき〜」の言葉には、これまでの競技人生のすべてが込められていた。

金メダルが確定した後、原田は「俺じゃないよ、みんななんだ、みんな」と語った。「みんな」とは4人の代表選手だけでなく、競技続行の決め手となったテストジャンパーを含め、全員に向けられたものだった。
《文・脇本深八》

原田雅彦
PROFILE●1968年5月9日生まれ。北海道出身。小学生からスキージャンプを始め、87年に雪印乳業(現・雪印メグミルク)入社。早くからV字ジャンプに取り組み、日本代表として活躍。五輪、世界選手権を通じて9個のメダルを獲得した。

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