(画像)Asphalt STANKOVICH/Shutterstock
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広岡達朗「プロならプロであることを証明しなければならない」~心に響くトップアスリートの肉声『日本スポーツ名言録』――第84回

今年2月に92歳の誕生日を迎える巨人OBの広岡達朗。現役引退後は監督としてヤクルト、西武を日本一に導き、ロッテでは日本初となるゼネラルマネジャー(GM)を務めた名将は、今もなお舌鋒鋭く日本球界への提言を続けている。


指揮官としてのイメージが強い広岡達朗だが、早稲田大学時代は堅実で無駄のない遊撃守備から、「六大学の貴公子」と称されるスタープレーヤーだった。1954(昭和29)年に請われて巨人に入団すると、5月には遊撃手のレギュラーを奪い、新人王、ベストナインに選ばれている。


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野球について人一倍考え、理論を追求している自負があり、大先輩の川上哲治に対しても一塁守備の際に少し逸れた送球を捕れなかったりすると、「そのくらいの球は捕ってくださいよ」と意見した。


これが生意気に映ったのだろう。60年に巨人監督に就任した川上は、最初こそは「今までいろいろあったが水に流してくれ。これからは力になってほしい」と頭を下げ、広岡をコーチ兼任とするなど厚遇したが、徐々に衝突することが増えていった。


64年8月6日の国鉄スワローズ戦。巨人が0対2とリードされていた7回表、一死三塁の場面で広岡が打席に立つと、三塁走者の長嶋茂雄がホームスチールを敢行して本塁でアウトとなる。これを川上のサインと解釈した広岡は「自分の打撃がそんなに信用できないのか」と激怒し、その打席を気のない三振で終えると、試合途中にもかかわらず帰宅してしまった。


周囲は川上に謝罪するよう説得したが、広岡はこれを断固拒否。仮に長嶋の本盗が成功しても、まだ1点ビハインドなのだから、そんな状況でリスクの高い選択をするなど、川上が「広岡憎し」との気持ちを抱いていたからに違いない――。確かにそう考えて仕方のない状況ではあった。

メジャーに渡って指導者への道へ

さらに同年オフ、川上は広岡をトレードに出すことを決める。これを知った広岡は、当時の球団オーナーである正力亨の元を訪れて「私は巨人が好きで入って、巨人から出る意志はありません。もし(トレードで)出すというなら、このまま『巨人の広岡』で辞めたいと思います」と訴えた。

球団や日本テレビの関係者が川上との仲を取り持ちいったんは巨人での現役続行となったが、66年になると出場機会が激減し、ついに広岡は現役を引退。その後は川上と自分、どちらの野球理念が正しいか確かめるために、アメリカへ渡ってメジャーリーグを視察した。結局、このときの経験が後の指導者としての基礎になったのだから、人生は何が幸いするか分からない。


70年に広島、73年にヤクルトでコーチを務めた広岡は、76年にはシーズン途中で休養した荒川博に代わりヤクルト監督に就任。77年には選手たちに、「プロならプロであることを証明しなければならない」と宣告した。プロである以上は結果で応えろというわけだ。


続いて手掛けたのは徹底した生活態度の改善だった。Bクラス常連だった当時のヤクルトは「広島以上にぬるま湯」だとして、広岡は「試合前日や練習前日の禁酒」や「麻雀・花札・ゴルフの禁止」「練習中の私語禁止」など、私生活にまで及ぶさまざまな規則を定めた。


こうした妥協を許さぬ姿勢は、後に「管理野球」と呼ばれたが、広岡からすると「プロならやって当たり前のこと」を求めたにすぎなかった。また、精神論だけでなく選手の起用法においても、いち早くメジャー式の先発ローテーション制などを取り入れた。

球団と対立して優勝監督が辞任

最初は選手からの反発もあったが、しかし、これに成績が伴うようになると話が違ってくる。77年は前年5位から2位に躍進。そして78年には、球団創設以来初のリーグ優勝と日本一を達成した。

広岡は「阪急との日本シリーズで圧倒的不利の前評判の中、勝てたのはヤクルトのほうがベストコンディションだったから」と、あらためて自分のやり方の正しさを誇示したのだった。


81年には広島コーチ時代の監督だった根本陸夫から要請され、西武監督に就任。4年の在任中でリーグ優勝3回、日本一2回の好成績を残している。だが、85年の日本シリーズで阪神に敗れたことから、監督権限を強化するよう要望したものの、これが聞き入れられずフロント批判を繰り返すことになる。球団管理部長を務めていた根本がこうした言動を問題視すると、広岡は自ら辞任を申し出た。


5年契約を1年残し、優勝したにもかかわらず監督が辞めるというのは異例のことで、マスコミはこぞって裏事情を書き立てた。その中には広岡が自然食にこだわるあまり、「肉や牛乳は腐った食べ物」などと発言したことが、百貨店やスーパーマーケットをグループ系列に持つ親会社の不興を買ったとの噂もあった。


しかし、辞任会見で広岡は「痛風が出て終盤の大事な試合で指揮が執れなかった。球団にはわがままを聞いてもらった」と、あくまでも自己都合の辞任だとしている。広岡なりに筋を通したわけである。 《文・脇本深八》
広岡達朗 PROFILE●1932年2月9日生まれ。広島県出身。呉三津田高、早大を経て54年に巨人入団。大型遊撃手として活躍する。引退後はヤクルト、西武で監督を務め、両球団で初のリーグ優勝と日本一を達成した。92年に野球殿堂入り。