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「記憶力」田中角栄の事件史外伝『宿命の二人――竹下登との“人たらし比べ”秘録』Part3~政治評論家・小林吉弥

衆議院議員、自民党、首相=1973(昭和48)年8月5日撮影(C)共同通信社

田中角栄が竹下登をうとましく思った原因の一つに、竹下の頭のよさ、とりわけ記憶力であったように思われる。共に、記憶力に関しては天才的であった。

田中は「コンピューター付きブルドーザー」の異名をとり、〝超頭脳〟の持ち主だったことで知られている。記憶力の凄まじさについても、田中自ら語った例証は次のごとし、とてもわれわれ凡人には真似のできないものであった。

「大蔵省(現・財務省)が持ってくる予算などの数字も、1回見ればすべて頭に入る。まァ、彼女の電話番号なら忘れないというのと同じだ」「10年会わなかった2、3回会っただけの田舎(選挙区)の支援者のバアサンの名前だって、会えばパッとフルネームが出る」

あるいは、数字については「子供の頃から算数、数学が大好きだった。だから、仕事でもすべて、迅速、合理的にさばくことになる」とも言っている。

演説の中、そうした数字の記憶力も半端ではない。もちろん、資料、メモなどは一切なしでブチまくる。

「みなさんッ、終戦時の昭和20(1945)年のセメント総生産高は87万3000トン、昨年が8588万2000トン、骨材は20年が8800万トン、昨年が8億1700万トンであります。高度成長のおかげだが、そういうものが長く続くはずがないッ。では、どうするか。これが、15年たった砂利協会のテーマでなくてはならない!

まァ、みなさんも知ってるね。日本は、93%が山であります。台風が来れば、砂利があふれるくらい流れてくる。そういう意味で、日本の砂利や砂がなくなることはない。しかしッ、昔のように、信濃川が越後平野をつくったような流れ方はしていない。治水、利水でダムをつくる。しかし、今度は砂利、砂は出てこない。その代わり山の砕石を使ったり、海砂利を洗ったり、田んぼを掘ったりという事態になった」

国会議員や官僚の経歴も事細かに…

「では、戦後、ダムがどれくらいできたかだ。これは1033カ所、現在建設中のものが542カ所ある。さらに、これから建設を必要とするものが約560カ所ッ。まァねェ、私が昭和30年に治水10カ年計画の会長をやったとき、大蔵省は昭和60年までに150カ所のダムをつくればいいとヌカしたが、私はダメだと、1500カ所の予算要求をしたんだ。そのために、土方(土木工事業者)代議士なんて言われたッ(拍手・爆笑)」

国会議員、官僚の経歴も、事細かに頭に入っている。

「みなさんッ、大村襄治君は大変な秀才であります。昭和16年前期の東大卒業で、大正生まれ。私と同じで、大体、秀才が多い(笑)。まァ、私が大蔵省に入りましたとき(大蔵大臣になったの意)、16年の入省組の会員にしろと、こう申し上げたんだが、これがなかなか入れてくれない。官僚機構の頑固なところでございます(笑)。

しかし、1年ぐらい審議をした結果、今日から16年前期卒業組と同等に扱うと、こういう決議がありまして、その代わりに赤坂で一杯おごれと言うんですナ(笑)。それも、16年前期の会合の際は、いつも応分の負担が必要だと言う。このォ、ちゃんと受益者負担を求める大蔵省は、大体みみっちいのであります!(笑)」(昭和53年4月、田中派大村代議士の「励ます会」でのあいさつ)

「私はねェ、よく数字の田中と言われるから、ここでちょっと披露しますとね。衆議院の定数511ッ、参議院252ッ、両院合わせての議席総数763であります。ここにおる稲村利幸君は昭和10年生まれの42歳ッ、年の順でいくと707番目ッ。707番目が大蔵政務次官になったことは、これまで例を見ないのであります。稲村君は、優秀な男でありますッ」(昭和53年5月、田中派稲村代議士「大蔵政務次官就任祝賀会」でのあいさつ)

数字の駆使は何よりも強い説得力を持つ

しかし、こうした記憶力、一方の竹下も田中に一歩も譲らない。「官僚の年次はすべて覚えている」と豪語したこともある。例えば、約40年前の記憶に次のようなものがある。

「大蔵省ね。昭和39年の田波(耕治)君が帰ってきて、同じ39年の涌井(洋治)君が主計局長に残った。そこで、国税庁長官の40年組の竹島(一彦)君が内政審議室に、42年の主税局長(薄井信明)が国税庁長官に。41年の長野(厖士)証券局長は、ちょっと動かせんね。それから武藤(敏郎)官房長が41年、しかし、これは閑職に就きたいと言って経済研究所へ行った。だから、だいたい分かる」

数字の駆使は、何よりも強い説得力を持つものである。また、部下たる議員、官僚たちも、ここまで俺のことを覚えていてくれたのかと、上司としての田中や竹下に対する親近感はいや応なく増すことになる。

読者諸賢には、田中と竹下が「人たらし比べ」にしのぎを削ったことがお分かりいただけよう。自分の権力の足元を揺るがしかねないと懸念する田中は、いよいよ竹下の頭のよさに警戒感をつのらせるのだった。警戒感は、やがて嫉妬に近いものに変わっていった。

なぜなら、竹下は田中の〝直球〟一本勝負とは別に、もう一つ誰にも投げられない〝変化球〟を投げられたからにほかならない。田中には、いささかそれが欠けていたということであった。

(本文中敬称略/Part4に続く)

【小林吉弥】=早大卒。永田町取材50年のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『高度経済成長に挑んだ男たち』(ビジネス社)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。最新刊に『新・田中角栄名語録』(プレジデント社)がある。

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