(画像)Dan Thornberg/Shutterstock
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原辰徳「私の夢には続きがあります」~心に響くトップアスリートの肉声『日本スポーツ名言録』――第82回

球界の盟主たる巨人の4番、監督として重責を担いながら、野球人生の大半を過ごしてきた〝永遠の若大将〟原辰徳。多少の好成績では「頼りない」と批判を浴びてしまう厳しい立場を支えたのは、無償の〝ジャイアンツ愛〟だった。


2023年シーズン最終戦、試合後のセレモニーで監督退任を発表した原辰徳。その監督としての能力について、野村克也は「監督の器にない」「目の前の勝ち負けにとらわれて選手の人間教育ができていない」と批判的だった。一方、江本孟紀は「17年間の在任中でBクラスは3回だけ。5位、6位になったこともない」ことを理由に、名将と讃えている。


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実際、日本プロ野球において監督歴10年以上で5位、6位の経験がないのは、過去に鶴岡一人(南海/監督歴23年)と川上哲治(巨人/同14年)しかいない。「あれだけの戦力に恵まれたのなら当然」という声も聞こえるが、名門球団で監督の座を得ることも一種の才能だろう。


監督として初めて迎えた02年シーズン、原はスローガンとして〝ジャイアンツ愛〟を掲げた。チームに忠誠を捧げる自己犠牲の精神は、時代遅れとの誹りも受けたが、それを臆面もなく選手たちに要求できるのが原の強みだろう。また、巨人への愛を堂々と宣言するからこそ、球団側も原を信頼した。


甲子園のアイドル、大学野球のスーパースターとして、80年ドラフトでは4球団が競合する中、巨人の藤田元司監督が交渉権を獲得。初年度の開幕戦から6番、セカンドで先発すると、打率2割6分8厘、22本塁打、67打点の成績を残して新人王に輝いた。

3連敗からの4連勝で日本一

〝若大将〟とあだ名された原は、83年に打点王とシーズンMVPを獲得して球界を代表する選手となったが、王貞治や長嶋茂雄を応援してきた古くからの巨人ファンの中には、原のアイドル的な振る舞いを快く思わない者もいた。84年に王監督が就任した後、3年連続で優勝を逃すと、彼らはその責任を原に押しつけて「V逸のA級戦犯」「チャンスに弱い、巨人史上最低の4番打者」などと酷評した。

86年シーズンの終盤には広島の津田恒実と対戦した際、剛速球をファウルした衝撃で左有鉤骨を骨折。後に「事実上、バッター原辰徳は、この骨折のときに終わりました」と自ら語ったほどの致命傷となり、以降は手首の違和感に加え、アキレス腱痛などにも悩まされるようになる。


89年の日本シリーズは、近鉄の加藤哲郎が「巨人は(パ・リーグ最下位の)ロッテより弱い」と発言したことで注目を集めた。原は初戦こそ4番を任されたもののノーヒットが続き、第3戦で7番に降格。巨人も3連敗で後がなくなってしまう。


第5戦は近鉄の先発が左腕の阿波野秀幸ということから、右打者の原は打順を5番に上げられたが、5回の第3打席では、目前で4番のクロマティが敬遠されるという屈辱を味わう。だが、そこでも原は遊ゴロに倒れて、このシリーズの連続無安打は18打席まで伸びていた。


7回裏2死一、三塁の場面で、近鉄バッテリーは再びクロマティを敬遠して満塁。ここで打席に入った原は、起死回生、シリーズ初安打となる満塁弾を左翼スタンドに放り込んでみせた。これで勢いづいた巨人は、3連敗からの4連勝で日本一の座に輝く。


原は「あそこで打てずにシリーズを負けていたら、僕の野球人生は違ったものになっていたでしょう」と振り返っている。あの劇的なホームランがなければ、ダメな4番の烙印を押されたまま選手生活を終え、監督の目もなかったかもしれないのだ。

人生の半分以上を巨人に捧げる

95年シーズンの終盤、原は前年に入団した落合博満にはじき出される形で出場機会を減らし、引退報道が流れるようになった。

そんな中、9月20日の中日戦で打席に立つと、東京ドームの観衆から大声援を送られた。それに応えるようにフルスイングした原は、左翼に高く上がった打球の行方を見届けて、バットを軽く放り投げた。76試合ぶりの4号ホームラン。試合後のお立ち台では感極まって、「たまに出てもこれだけのお客さんがね、声援を送ってくれて…」と声を詰まらせた。


引退試合となった10月8日の東京ドーム最終戦は、引き分け再試合として組まれた広島との消化試合にもかかわらず、チケットは即日完売。4番、サードで先発出場した原は、現役最後となる通算382号を放ってユニホームを脱いだ。


原は試合後の引退セレモニーで、「小さい頃、野球選手になりたい、ジャイアンツに入りたい。その夢を持って頑張りました。そして今日、その夢は終わります。しかし、私の夢には続きがあります」と名言を残した。


その夢の続き、巨人監督として9度のリーグ優勝、3度の日本一に輝いた原。現役時代の成績やカリスマ性では王、長嶋にかなわなかったかもしれないが、監督としての実績を含めれば、偉大な先輩たちとも十分に肩を並べたと言えるだろう。


監督退任をファンに告げる最後のあいさつでは、現役15年、コーチ3年、監督17年の計35年間、人生の半分以上を捧げてきた巨人への感謝を語り、「私の心境は一点の曇りもございません」と締めくくった。 《文・脇本深八》
原辰徳 PROFILE●1958年7月22日生まれ。神奈川県出身。東海大相模高から東海大を経て80年ドラフト1位で巨人入団。1年目から中心選手として活躍。現役引退後は通算17年にわたり巨人の監督を務め、9度のリーグ優勝と3度の日本一に輝いた。