(画像)Victor Velter/Shutterstock
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木村政彦「3倍努力すれば少しは安心できるというものだ」~心に響くトップアスリートの肉声『日本スポーツ名言録』――第81回

「昭和の巌流島」といわれた力道山戦では、一方的に殴り蹴られ屈辱の惨敗を喫してしまった木村政彦。しかし、柔道家としての現役時代を知る者の多くは「木村こそが史上最強」と言ってはばからず、現在はその名誉も回復しつつある。


「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」と謳われ、しばしば史上最強の柔道家として名前が挙がる木村政彦。約5年の兵役を挟んだ1936(昭和11)年から50年までの15年間、日本選士権(全日本選手権)や天覧試合などで無敗を続け、当時は「木村をいかに倒すか」ではなく「木村相手に何秒もつか」が選手間で話題になるほどの強さを誇った。


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木村がまだ20歳で拓殖大学の学生だった37年、初めて挑んだ日本選士権の決勝は延長を繰り返し、40分近くに及ぶ死闘となった。結果、木村は勝利を収めたものの試合ぶりに納得がいかず、10日間悩み続けた末に「人の2倍努力する者は必ずどこかにいる。3倍努力すれば少しは安心できるというものだ」との考えに到達。以後はこれを欠かさず続けた。


出稽古も含めて乱取りを100本、大木に帯を巻いての打ち込み1000本など、練習時間は1日10時間にも及び、さらには「寝ている間は練習ができない」と睡眠を3時間に削った。木村は後年に「寝ているときにもイメージトレーニングをしていた」と話している。


近年いわれる科学的トレーニングを超越した猛烈な練習量と、「負けたら腹を切る」とまで言って、試合前には実際に切腹の練習までしたという決死の覚悟が、「鬼の木村」をつくり上げたのだった。


木村の怪力無双ぶりは、「夏の暑い日、うちわ代わりに部屋の畳をはがして師匠の牛島辰熊をあおいだ」「走り始めた都電を後ろから引っ張って停車駅まで戻した」「前に伸ばした両腕の肩から手首まで100キロのバーベルを転がした」などと伝えられ、重量挙げの実力は当時の日本代表を凌駕したともいわれる。


だが、この不世出の柔道家は、50年に発足したプロ柔道に参戦したために、日本柔道の総本山たる講道館の段位は七段止まりで、殿堂入りもしていない。


木村の名前が再びクローズアップされたのは、90年代半ばのことだった。総合格闘技ブームの嚆矢となったUFC大会で猛威を振るったグレイシー一族が、彼らにおける極め技の一つ、腕がらみのことを「キムラロック」もしくは単に「キムラ」と呼んでいたのだ。


話は51年までさかのぼる。ブラジルの新聞社から招待を受けた木村はリオデジャネイロのマラカナンスタジアムにおいて、現地で名高いグレイシー一族の総帥、エリオ・グレイシー(ヒクソンやホイスらの父)と、ブラジリアン柔術ルールで対戦。エリオの頭部を怪力で締め上げた木村は、失神状態になったところを大外刈りで倒し、腕がらみで完勝した。


柔術において生涯唯一の完敗を喫したというエリオは、その勝者である木村に敬意を表して、最後の極め技を「キムラロック」と名付けたのだった。


90年代の格闘技界を席巻したグレイシー一族とはるか昔に真剣勝負で対戦し、それに完勝した日本人として木村の株は急騰。それまでの世間の評価は「力道山にやられた負け役」でしかなかったが、実はとんでもなく強かったという事実が再認識され、力道山戦についても新たな検証が行われるようになった。

〝昭和の巌流島〟不穏試合の真相

54年12月22日、東京・蔵前国技館で実現した木村と力道山の世紀の一戦。これに先立つ同年2月から、木村は力道山のタッグパートナーとして全国14カ所でシャープ兄弟と対戦していたが、これらは力道山側の主催であったため、毎試合で木村は3本勝負のうち1本を取られるなど負け役を強いられた。

これを不服とした木村は自ら新団体を立ち上げたが、その際に新聞社の取材に応えて「真剣勝負なら(力道山より)俺のほうが上だ」とぶち上げた。これに力道山が反応して対戦が決定。だが、「昭和の巌流島」と呼ばれたこの試合で、木村は結果的に失神KOの惨敗を喫してしまう。


試合後に木村は、引き分けの合意がありながら、それを力道山がぶち壊したと主張した。引き分けの後は両者が勝ち負けを繰り返しながら、全国巡業する計画がもともとあったというのだ。この頃、木村の妻は結核を患っていて、その治療に必要な薬の代金を捻出するため試合に臨んだとされ、力道山に引き分けの約束を反故にされた後も、金銭での和解に応じたといわれている。


その甲斐あって妻は回復したというが、それでも力道山戦の敗北にはよほど後悔があったのだろう。大腸がんにより75歳で亡くなる直前、木村は93年のインタビューに対して、「力道山を殺したのはヤクザではなく私だ。私が死という言葉を念じて彼を殺したのだ」と話している。


力道山戦後の木村については、落ちぶれたようなイメージを持つ人がいるかもしれないが、実はそうでもない。自身のプロレス団体は間もなくして活動休止となったが、61年には母校の拓殖大学柔道部監督に就任して柔道界に復帰。65年には全日本学生柔道優勝大会で同大学を初優勝に導き、83年の退任まで監督を続けている。


このときに木村が自らスカウトして育てた愛弟子の岩釣兼生は、師匠譲りの猛稽古によって、拓大卒業後の’71年に全日本選手権を制覇。現役引退後の岩釣はエジプト代表チームの監督を務め、その弟子、つまり木村の孫弟子に当たるモハメド・ラシュワンは、84年のロサンゼルス五輪決勝で山下泰裕と歴史的名勝負を演じることになる。 《文・脇本深八》
室伏広治 PROFILE●1974年10月8日生まれ。静岡県出身。2004年のアテネ五輪で金メダル、12年のロンドン五輪で銅メダルを獲得したハンマー投げのスペシャリスト。日本選手権では前人未踏の20連覇を達成している。20年よりスポーツ庁長官を務める。