島田洋七 (C)週刊実話Web
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売れていない時期から大変お世話になった京唄子師匠~島田洋七『お笑い“がばい”交遊録』

まだ大阪にいる頃に上の子どもが生まれました。経理の仕事をしていた嫁も、出産を機に仕事を辞めた。舞台や徐々に出始めたテレビ番組のギャラだけではとても食べていけないので、バイトを探していると、ザ・ぼんちのおさむが紹介してくれたんです。


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おさむも大阪・ミナミのスナックで弾き語りのバイトをしていた。その2軒隣に上品なスナックがあり、俺はそこでバイトをするようになりましたね。


ある日、読売テレビの『お笑いネットワーク』という番組に出演。そのときに初共演したのが、女優で漫才師の京唄子師匠でした。収録が終わると、師匠に「君らはウケるな。仕事多いやろ?」「ぼちぼちです」「食べていけてるのかいな?」「言わんといて欲しいんですけど、子どもが生まれて大変なんです」「うちは吉本じゃないから言わへんよ。バイトしてんの?」「ミナミのスナックでバイトしてます」「近所にうちの店があるで。夜中の3時ごろまでやってるから腹減ったときはうちでご飯食べて帰りや。君らは絶対に売れるで」。


行くか迷ったけど、唄子師匠にお会いできたらなと思いバイト終わりにお店に行ってみたんです。案の定、唄子師匠は不在で、娘さんが手伝っていましたね。師匠のお店は30人ほど入るサパークラブで、師匠がいなくても店の人に伝えておいてくれる気配りをしてくれました。「母から聞いています。ご飯食べていけばいいじゃない」と促されるままご馳走になりました。

新幹線で偶然会って…

以降、週に一度くらいのペースで遊びに行くようになった。4~5回目に行くと、唄子師匠と『笑点』に出演していた林家こん平さんがいたんです。こん平師匠に挨拶へ行くと、「まだ出てきたばかりやけど、関西で一番おもろい若手、これから売れるで」と唄子師匠が紹介してくれたんです。

すると、こん平さんにお客さんからリクエストが入った。こん平さんはマイクを握り「○○と掛けまして、○○…」。大阪のお客さんはそういうネタがあまり好きじゃないんですよ。しかも、お酒が入っているから、どぎついネタや下ネタがウケる。それで俺にマイクが回ってきて、ちょこちょこ笑わせていたんです。


気がつくと、終電後…。飯を食わせてもらった上に、唄子師匠がタクシー代として2000円をくれましたよ。そんなことが7~8回ありましたね。


俺らも売れて、新幹線で唄子師匠に偶然会ったことがあるんです。「以前はお世話になりました。まだお店はやってはるんですか?」「やっとるよ。またおいでな」。大阪での仕事が終わり、思い立ってお店へ遊びに行ったら、ちょうど唄子師匠もいましてね。お客さんに「初めて舞台を見たときから売れると言ってたんよ。洋七くん、何か喋って」。バンバン笑かせましたよ。


終わると、唄子師匠が「全員1000円ずつ出して」と15人ほどいたお客さんに言い出した。集めたお金をタクシー代として手渡されたんです。「師匠、結構です」「本当だったら、何十万もかかるやろ。1人1000円くらい安いもんや」。お客さんも「そうや、そうや」。売れてようがなかろうが「ちょっと喋って」と唄子師匠の態度は変わらない。初心を忘れるなと言われているようでしたね。
島田洋七 1950年広島県生まれ。漫才コンビ『B&B』として80年代の漫才ブームの先駆者となる。著書『佐賀のがばいばあちゃん』は国内販売でシリーズ1000万部超。現在はタレントとしての活動の傍ら、講演・執筆活動にも精力的に取り組んでいる。