島田洋七 (C)週刊実話Web
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世界的レゲエ歌手のジミー・クリフさんとたこ焼き屋で~島田洋七『お笑い“がばい”交遊録』

東京に進出する前、まだ大阪のうめだ花月に若手として出ていた頃の話です。公演の間が2〜3時間あったんです。楽屋でゴロゴロしていても仕方ないから、ザ・ぼんちのまさとと大阪城へ行ったんです。


近くにたこ焼き屋があったから並んでいると、外国人3人に日本人女性2人のグループがいた。外国人は初めて見るたこ焼きに興味津々で「これは何?」「ジャパニーズパイ」と通訳の方が答えていましたね。


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そうしたら通訳の方と目が合ってね。「B&Bの島田洋七さんですよね? 握手してください」。関西ローカルの番組には出ていたから知っていてくれたんです。その様子を見た外国人は「彼は誰?」みたいなことを聞いている。「ジャパニーズ フェイマス コメディアン」。そうしたら「俺にも握手をしてくれ」と言うからしましたよ。


俺も「今日は何しに来たんですか?」と問い返すと、「コンサートです。この方は世界的に有名なレゲエ歌手のジミー・クリフさんですよ」と通訳さん。レゲエという言葉は知っていたけど、曲も名前も知らなかったんです。しかも当時は、まだ大阪城ホールがなくて、大きな会場はフェスティバルホールくらい。そのフェスティバルホールでのコンサートにジミー・クリフさんから招待されたんです。


うめだ花月での2回目の公演を終え、まさとと会場に向かおうとしたけど、手土産が必要でしょ。和菓子より洋菓子、ケーキよりもマロングラッセのほうがいいだろうということで値段を見ると30個くらいで4000円もしたんです。

コンサート後に食事をして…

当時の俺らは10日間公演でギャラは1万2000円。1人2000円ずつ出して、会場の受付で「ジミー・クリフさんを呼んで」「呼べませんよ。世界の大スターですよ」「本人が遊びにこいって、通訳の人が言ってたんよ」「ほんまですか。ちょっと待っててください」。信じられない顔をして確認に行ったんです。

戻ってくると、マネジャーも一緒に来て「楽屋に来てくださいと仰っています」。俺はジミー・クリフさんがそこまで有名な方とは知らなかったんです。


満席だから舞台袖に椅子を用意してくれて、コンサートが始まった。バックバンド10人が楽器を演奏し始めるとものすごい歓声ですよ。でも、俺らの近くでスタンバイしているジミー・クリフさんはなかなかステージに出て行かないんです。10分ほどすると「仕事してくる。見ときな」と言い残し出て行きましたよ。


無事、コンサートが終わると、ジミー・クリフさんに「お腹が空いたからどっかお店ある?」と聞かれ、当時流行っていた炉端焼きの店に電話し、7〜8人で食べに行きました。大喜びしてくれてね。会計は2万4000円くらい。払いに行こうとしたら、呼び止められ20万円も手渡された。


「こんなにいらない」と5万円だけ受け取り、お釣りを返したんです。そうしたら「本当に君は真面目だね。20万円渡されたら『サンキュー』と言って受け取るよ」と妙に感心されましたよ。


翌日、うめだ花月に通訳の人が訪ねてきて、ジミー・クリフさんのジャマイカの住所を手渡され、それから2回ほど手紙のやり取りをさせてもらいました。
島田洋七 1950年広島県生まれ。漫才コンビ『B&B』として80年代の漫才ブームの先駆者となる。著書『佐賀のがばいばあちゃん』は国内販売でシリーズ1000万部超。現在はタレントとしての活動の傍ら、講演・執筆活動にも精力的に取り組んでいる。