エンタメ

「損害賠償」田中角栄の事件史外伝『宿命の二人――竹下登との“人たらし比べ”秘録』Part2~政治評論家・小林吉弥

衆議院議員、自民党、首相=1973(昭和48)年8月5日撮影(C)共同通信社

「政界の力学をこれほど分かっている人はいなかった。天才的と言ってよかった」(宮澤喜一元首相)

「なんとも人をうまく使い、統率していく名人だった。その限りにおいては、この人の右に出る人はいなかった」(後藤田正晴元副総理)

いずれも竹下登元首相の組織管理術、リーダーシップの「凄さ」を指摘した言葉である。

筆者も竹下本人へのインタビューを含め、ずいぶん取材した記憶があるが、この実力者二人による「竹下観」にまったく異論はなかった。すなわち、その手法はいささか異なる部分はあるが、田中角栄元首相ともども人心の収攬術については天才的で、ともに極め付きの「人たらし」だったのである。

その好例の一つに、人事の「損失補填」ということがあった。どんな組織でも人事の季節になると、昇進できないことへの不満、時に降格、場合によってはクビという問題が発生する。リーダーたる者、これらを黙って指をくわえて見ているようでは、人は集まって来ない。不遇な連中に手を差し伸べ、救済してやる度量があるか否かで、リーダーとしてのさらなるその先が計られることになる。

田中は落選した国会議員、とりわけ野党までも再就職の世話を焼き、出来がイマイチでなかなか大臣ポストが回って来ない者に、やがては伴食ながら大臣ポストに就けてやり、選挙区支援者に面目を保たせてやったものである。

あらゆる事態に備える“もう一案”

あるいは、首相時代に大蔵省(現・財務省)の事務次官人事で、次のような例を残している。

時の大蔵大臣は、「角福総裁選」からのライバル関係を引きずっている福田赳夫であった。その福田が、後任次官に自らに近い主計局長の橋口収という人物を推した。慣例からすれば、主計局長は次官の〝待機ポスト〟であり、福田としては常識的な選択をしたことになる。

ところが、田中はこの〝橋口次官案〟に難色を示し、自らに近い主税局長だった高木文雄を推したのだった。高木は「毎朝、田中邸の庭掃除に行っているのではないか」と揶揄されるほど、〝親田中〟で知られた官僚であった。結局、田中、福田の神経戦のあと、福田が田中の顔を立てた形で「高木次官」をのんだのである。

だが、一方で、主計局長が次官になれずで、面目をつぶされた橋口としては立場がない。ここで、田中の打った手が素早かった。当時の大蔵省詰め記者の、こんな証言が残っている。

「次官の相澤英之(退官後に参院議員。女優の司葉子と結婚した)が、橋口の処遇を田中に相談した。このあたりが、なんとも田中らしかった。田中はその場で経済企画庁に電話を入れ、通産省枠だったこの経企庁の次官に、橋口を起用せよと命じた。しかし、通産省が抵抗して、らちが明かなかった。

じつは、こうした事態に備えて、田中はもう一案を持っていた。これも田中らしいところで、事に当たるときは必ず他の案、2、3枚のカードを持って対応していた。ために〝田中流〟は、何事にも事態が行き詰まることがなかった。

「なんとか損害賠償してやらんとな」

通産省が田中の申し出をのまなかった場合、田中は折から国土庁の新設が決まっていたことから、次のカードとして橋口の国土庁初代次官を念頭においていた。結局、橋口は国土庁次官となり、田中へのわだかまりは急速に氷解していったものだった」

大臣のイスから遠かった国会議員や、この橋口のような多くの官僚らに支えられ、田中は長く権力を温存することができたのである。

一方の竹下も、こうした温情の「田中流」気配りを、見事に踏襲していた。

昭和49(1974)年11月、すでに退陣空気の色濃かった田中内閣は、最後となる内閣改造に踏み切った。しかし、改造後わずか29日にして、政権は幕を引かざるを得なかった。時に、竹下は官房長官で「幕引き官房長官」とも言われている。

さて、そのたった29日間の内閣に、じつに初入閣組が7人もいた。彼らには、入閣待機組の「在庫整理」との陰口もあった。

田中が、竹下に言った。

「君は2回目(佐藤栄作内閣でやはり〝幕引き官房長官〟だった)だからいいが、1回目でたった29日の(大臣の)ヤツはかわいそうだ。なんとか損害賠償してやらんとな」

8年かけて信念を通した竹下登

「損害賠償」とはいかにも田中特有の言い回しだったが、それを耳にした竹下は、「俺がどこかで必ず彼らの面倒をみてやる。損失補填してみせる」と、心したのだった。

それからじつに延々と8年、竹下は田中派幹部として、田中のあとの三木武夫、福田赳夫、大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘の5代にわたる政権人事に、不遇だった7人全員の入閣を次々に実現させていった。最後は、29日内閣時に国土庁長官(国務大臣)だった丹羽兵助の入閣で、中曽根内閣に総務長官として押し込んだのだった。

まさか8年かけて信念を通すとは、田中としても警戒してやまなかった竹下の凄みを改めて見た思いであった。「人たらし」では、田中に一歩も譲らぬ竹下だったのである。

こうした「損失補填」を受けた議員の多くが、中曽根のあとようやく政権の座に就いた竹下の〝応援団〟として、陰に陽に政権をバックアップしたのは言うまでもない。

約束は守る。信念は通す。部下への目配りを忘れぬ。これが、どの社会でも共通する〝出世街道〟を走るための手形に、ほかならないのである。

(本文中敬称略/Part3に続く)

【小林吉弥】=早大卒。永田町取材50年のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『高度経済成長に挑んだ男たち』(ビジネス社)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。最新刊に『新・田中角栄名語録』(プレジデント社)がある。

あわせて読みたい