(画像)Ivan Roth/Shutterstock
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北の湖「頑張れと言われたときはガクッときた」~心に響くトップアスリートの肉声『日本スポーツ名言録』――第77回

現役時代は輪島、初代貴ノ花、二代目若乃花、千代の富士ら人気力士を向こうに回して、「憎らしいほど強い」と一種の悪役的な扱いを受けていた横綱・北の湖。引退後は日本相撲協会の理事長として威厳を誇り、多くの改革を成し遂げた。


1966年の冬、中学1年にして三保ヶ関部屋に入門した北の湖は、その翌年の初場所で初土俵を踏んだ。今から半世紀以上前とはいえ、13歳7カ月のデビューはもちろん戦後最年少で、現在は中学在学中の入門が禁止されているため、この先、記録が破られることはまずないだろう。中学卒業前に幕下まで昇進した北の湖は、72年の初場所に18歳7カ月で新入幕。そして、74年の名古屋場所後に、史上最年少となる21歳2カ月で横綱昇進を果たした。


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ただし、この当時の北の湖は飛び抜けて強かったわけではなく、大関になるまで全勝優勝は14歳のときに、序二段での1回しかない。これは師匠である三保ヶ関親方が「中学までは学業優先」との方針で、学校が休みの日にしか稽古をさせてもらえなかったことによる。そんな北の湖が「憎らしいほど強い」と呼ばれるようになったのは、横綱昇進後のことである。


横綱昇進が決まった場所は、勝てば優勝の状況で千秋楽を迎えながら、本割、優勝決定戦とも輪島に得意技の左下手投げで敗退していた。それでも北の湖が横綱に推挙されたのは、将来性を高く評価されてのことであった。

人気が今一つだったのは…

名古屋市熱田区の法持寺の宿舎で横綱昇進決定の報を受けた北の湖は、さっそく北海道にいる母親へ電話を掛けた。その際の「うん、ほんまに横綱になったんや、母ちゃん」という、まだ少年らしさの残る言葉は石碑に刻まれ、今も同寺に残っている。大相撲入りを決意して上京するとき、母親は「強くなるまで帰ってくるな」と、まだ13歳の息子には厳しすぎる言葉で送り出した。後年、北の湖は「あの言葉があったから頑張れました。どんなときでも耐えることができたんです」と述懐している。

北海道有珠郡の生まれで東京都墨田区で育った北の湖が、なぜ関西なまりだったのかというと、師匠の三保ヶ関親方が兵庫県姫路市の出身で、その言葉を毎日聞いているうちに影響されたものだと思われる。


共に「輪湖時代」を築いた5歳年上の輪島は、横綱昇進まで21場所のスピード出世記録を持つ大学相撲出身のエリート。一方、北の湖は北海道の田舎から出てきた中卒のたたき上げ。真逆な経歴の2人の通算対戦成績は、北の湖の21勝23敗とほぼ互角で、千秋楽結びの一番での取組は史上3位の都合22回にも及んだ。


北の湖が20代後半になった頃、いつまでも「北の怪童」と呼ぶのもおかしいだろうということで、輪島の「黄金の左」に匹敵する愛称として、北の湖の故郷に近い有珠山にちなみ「活火山の右上手」と呼ばれたことがあった。だが、寄っても押しても最強クラスの北の湖に対し、投げに特化した呼び方はなじまなかったのか、これが定着することはなかった。


それほどの強さにもかかわらず人気が今一つだった理由としては、まず土俵上での振る舞いが「ふてぶてしい」ことがあった。北の湖は倒した相手が起き上がる際に手を貸そうとせず、勝ち名乗りを受けるためにさっさと引き揚げてしまう。そんな姿がファンから傲慢だと受け止められたのだ。


しかし、北の湖本人はこうした態度について、「自分が負けたときに相手から手を貸されたら屈辱だと思うから、自分も相手に手を貸すことはしない」と話している。

勝ち続けることへの大きな重圧

同じ時期には大相撲史上でもトップクラスの人気を誇る貴ノ花がいて、北の湖はその優勝を邪魔する憎き敵役とみなされたことも、不人気の要因となった。

高い運動能力と強靭な粘り腰を武器にして、細身の体で巨漢力士を相手に好勝負を繰り広げた貴ノ花は、輪島とのライバル関係から横綱昇進を期待されたが、後から出世した北の湖はこれをあっさりと抜き去っていった。通算対戦成績でも36勝10敗と北の湖が大きく勝ち越していて、貴ノ花ファンからすると北の湖はまさに目の上のたんこぶだったのだ。


75年の春場所で貴ノ花は13勝1敗で千秋楽を迎え、多くのファンが悲願の初優勝を期待していた。だが、ここで対戦した12勝2敗の北の湖はあっさり上手投げで勝利。貴ノ花ファンの悲嘆の声が渦巻く中、北の湖はいつも通りに表情を変えることはなかった。


そうして迎えた優勝決定戦、多くのファンは「結局、北の湖が勝つのだろう」と半ば諦め気味だったが、頭をつけて必死の形相で食らいつく貴ノ花の寄りで北の湖が土俵を割ると、その瞬間、館内には大歓声が沸き起こり、土俵や天井が見えなくなるほどの座布団が飛び交った。これほどの熱狂をもたらしたのは、やはり北の湖の「憎らしいほどの強さ」があってこそだった。


一種の悪役と見られることについて、北の湖は強さの証しだと誇りに思っていたところもあったようで、晩年、成績が振るわず声援を受ける立場になると、「どんな野次も気にならなかったけど、頑張れと言われたときはガクッときた」と話している。


だが、勝ち続けることへのプレッシャーは相当なものだったのだろう。引退後に「生まれ変わって、もう1回、横綱で相撲を取れと言われたら、もう取りたくないですね」と語っていたこともある。 《文・脇本深八》
北の湖 PROFILE●1953年5月16日生まれ〜2015年11月20日没。北海道出身。歴代2位となる横綱在位63場所の記録を持ち、ライバルの輪島と「輪湖時代」を築く。幕内優勝24回は当時、大鵬に次ぐ大記録。85年に引退し、一代年寄「北の湖」を襲名した。