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宇野千代“恋多き女の優雅な打ち筋”~灘麻太郎『昭和麻雀群像伝』

Nor Gal / Shutterstock

「私、なんだか死なないような気がするの」

晩年にこんな名セリフを吐いた作家の宇野千代は、たいへんな麻雀好きであった。足腰が弱って座れなくなる直前まで、牌を握っていたという。

彼女に麻雀を教えたのは、洋画家の東郷青児だった。宇野の代表作『色ざんげ』は、東郷の情死事件をテーマにした小説として、発表当時に大きな反響を得ている。2人は同棲していたが、離別した後、東郷は苦笑まじりにこう漏らした。

「君はあの話を聞くために、僕と一緒にいたんだな」

宇野が、まだ東郷と一つ屋根の下で暮らしていたある日のこと。突然、刑事の来訪を受けた。容疑は麻雀賭博――。玄関先で刑事と対面した東郷は、慌てて宇野を寝室に押し込み、「千代は風邪をひいて寝ています」と語り、一人で連行されていった。

この逮捕劇は、東郷と宇野のカップルにとどまらない大掛かりなもので、連日〈文士の大賭博〉という大見出しが新聞をにぎわした。

昭和9年3月16日と17日、警視庁は一流文人宅を急襲。麻雀賭博の容疑で東郷のほか作家の広津和郎、菊池寛、大下宇陀児、甲賀三郎、海野十三らを一斉検挙した(のちに宇野も呼ばれた)。

軍国主義化への傾斜が強まり、遊蕩的な風潮を排除しようとする時勢の中で、〝麻雀亡国論〟が声高に叫ばれていた矢先の出来事であった。

3月17日付の『東京日日新聞』夕刊ではトップ記事として扱われ、見出しには〈結構すぎて手慰み/有閑階級おナワ頂戴〉の文字が躍った。

文化人を有閑階級と称するあたり時代を感じさせるが、実際、彼らのレートは高額であった。1000点10円か20円。当時の若手サラリーマンの月給が30~50円だったから、現在に換算すると1000点1万円程度だろうか。

著名文化人の検挙による麻雀弾圧

宇野は自伝エッセイ『生きて行く私』の中で、逮捕されたときの模様をこう記している。

《そのとき、私はその席の勝負では負けであったと、ほんとうのことを答えたのであるが、「おかしいですね。誰方にお尋ねしても、みな、負けであったとお答えになる。負けたから罪が軽くなる、勝ったから重くなる、と決まってはいないんですがね」。刑事が笑ってそういったのを私は覚えている》

警視庁は著名文化人の検挙による麻雀弾圧をもくろんだものの、派手な新聞報道で逆に一般人の関心をあおるという予想外の結果を招いてしまった。

昭和初期に麻雀の第1期黄金時代が到来したが、ブームの主役は文化人であり、官憲が陰の演出者となったのは、なんとも皮肉なシナリオではないだろうか。

『色ざんげ』と並ぶ代表作『おはん』を舞台の当たり役にしていた女優・山本陽子は、生前の宇野にかわいがられ、しばしば自宅に招かれて麻雀を打っていた。

「宇野先生の麻雀は優雅で、卓全体が華やかでした。それでいて、ご性格同様さっぱりした雀風で無駄が少ないんです。麻雀を通して、いろいろ教えていただいたことが鮮明に思い出されます。着物のご専門家でもありましたから、着付けについても貴重なアドバイスをいただきました。麻雀自体は上達しない私ですが、打つときの姿勢がいいのは、先生の座っておられる姿を参考にしているせいかもしれませんね」

宇野の出身は山口県横山村(現在の岩国市)で、酒造業を営む裕福な家に生まれたが、父親は生涯生業に就いたことはなく、大の博打好き。宇野は幼い頃に母親を亡くしているが、父親は宇野と12歳しか違わない若い娘と再婚。しかし、宇野は実母と思って育ち、大変に慕っていた。この母親が『おはん』のモデルなのだという。

作品にも描かれた男性遍歴

上京した宇野は、本郷3丁目の西洋料理店・燕楽軒で給仕のアルバイトをしている間に、久米正雄や芥川龍之介と知り合い、今東光とは親交を結んだ。その後、北海道へ移り住むことになるが、大正10年に『時事新報』の懸賞小説に応募すると1等で当選し、作家デビューを果たした。

昭和11年にはファッション雑誌『スタイル』を創刊。表紙絵は藤田嗣治、題字は東郷が描き、のちに夫となる北原武夫とともに編集を務めた。戦時中にいったん廃刊するものの、昭和21年に再び刊行して成功を収めている。この頃に着物のデザインを始め、スタイル誌で紹介するとともに販売も行った。宇野は晩年に到るまで旺盛な活動を続け、女性実業家の先駆者としても知られる。

宇野は前述した東郷や北原のほかにも、作家の尾崎士郎、梶井基次郎など、多くの著名人との恋愛、結婚遍歴を持ち、その波乱に富んだ生涯はさまざまな作品の中で描かれている。

出会いと離別を繰り返すたびに家を建て替え、数えてみると11軒建てた勘定になると当人が語っており、それを随筆にもしている。

作家としては先の『色ざんげ』『おはん』のほかに、『人形師天狗屋久吉』『或る一人の女の話』などを発表。80年代からは女性向けの恋愛論、幸福論、長寿論などのエッセイを数多く書いた。1982年に発表した自伝的小説『生きて行く私』は以後、宇野の代名詞となった。

96年6月10日、宇野は急性肺炎のため東京都港区の虎の門病院において98歳の生涯を閉じ、忌日は「薄桜忌」と名付けられた。

(文中敬称略)

宇野千代(うの・ちよ)
1897(明治30)年~1996(平成8年)年。岩国高等女学校卒。1921年に新聞に応募した処女作が当選して作家の道を歩む。大正、昭和、平成にわたり小説家、随筆家、編集者、実業家、着物デザイナーとして活躍。1990年に文化功労賞を受賞した。

灘麻太郎(なだ・あさたろう)
北海道札幌市出身。大学卒業後、北海道を皮切りに南は沖縄まで、7年間にわたり全国各地を麻雀放浪。その鋭い打ち筋から「カミソリ灘」の異名を持つ。第1期プロ名人位、第2期雀聖位をはじめ数々のタイトルを獲得。日本プロ麻雀連盟名誉会長。

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