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鈴木啓示「投げたらアカン」~心に響くトップアスリートの肉声『日本スポーツ名言録』――第76回

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(画像)PeopleImages.com – Yuri A/Shutterstock

確執のあった野茂英雄がメジャーリーグで大成功を収めたせいで、いまだ「ダメ監督」と批判されることの多い鈴木啓示。だが、選手としてはまさにレジェンド級で、〝最後の300勝投手〟の実績はもっと評価されてしかるべきだろう。

「ワシは雑草や。踏まれて傷だらけになっても、当たり前や。けど見てみい、雑草はコンクリートを割ってでも伸びてきよる。中高生諸君、雑草になろうやないか。投げたらアカンのや。一度や二度の失敗で、人間、投げたらアカンのやで」

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1984年、通算300勝達成に伴って、青少年健全育成キャンペーンの広告(公共広告機構=現在のACジャパン)に起用された〝ミスター・バファローズ〟こと鈴木啓示。「投げたらアカン」のセリフは翌年暮れに、流行語大賞の大衆賞にも選ばれた。

「ワシは雑草や」は自身の座右の銘である「草魂」となり、後年に上原浩治がプロ入りした際のキャッチフレーズ「雑草魂」にも大いに影響を与えている。

育英高校時代は兵庫県屈指の左腕として注目され、66年にドラフト2位で近鉄入団。当時は阪神の1位指名も噂された逸材であり、プロ入り後には1年目から2桁勝利を挙げている。雑草というよりも、むしろ華々しい球歴の持ち主と言えそうだが、パ・リーグの不人気球団に在籍していたこともあり、そこには本人にしか分からぬ努力や葛藤があったのだろう。

引退後、近鉄監督に就任してからは、選手時代の栄光とは程遠い成績しか残せなかった。94年には球団記録の13連勝を達成したが、野茂英雄や吉井理人など投手陣との確執が表面化。鈴木が自己流のやり方を押しつけたことに起因する対立は、近鉄を離れた後の野茂の大活躍もあって、監督としての評価を大きく落とすことになった。

“飛ぶボール”の使用

だが、選手としての鈴木が〝超〟の付く一流であったことに疑いの余地はない。通算317勝はNPB(日本プロ野球機構)歴代4位で、左腕に限れば400勝の金田正一に次ぐ2位。そのうちの288勝が先発での勝利で、これは歴代1位の記録だ。

また、被本塁打数560本も堂々のNPB歴代1位。本塁打をたくさん打たれたことは不名誉にも思えるが、鈴木自身はこれを打者と真っ向勝負してきたことの証しだとして、「完投や勝ち星よりも威張れる数字かもしれんね」と語っている。

被本塁打の多さは、当時の球団事情にもよる。かつて近鉄が本拠地、もしくは準本拠地として使用していた日生球場と藤井寺球場は、もともとグラウンドが狭く、さらに〝赤鬼〟チャーリー・マニエルらを擁する強力打線を活かすため、公式球として〝飛ぶボール〟を使用していた時期があったのだ。

近鉄に在籍した20年のうちで鈴木の2桁勝利は18回にも及び、入団2年目の67年からは5年連続で20勝超え。キャリアハイは78年の25勝10敗で、この年は35戦に先発して30完投(うち8完封)という鉄腕ぶりを発揮している。ちなみにNPBで25勝以上を記録した投手は、この年の鈴木が最後となっている(23年シーズン終了時点)。

まさにエースの称号にふさわしい実績だが、その一方で、あくまでも先発にこだわる鈴木は救援登板を好まず、エースは先発もリリーフもこなすのが当然とされていた時代においては、自分勝手と批判されることも多かった。

功を奏した投球スタイルの変更

エースとしてのプライドの高さは相当なもので、83年にヤクルトから鈴木康二朗が移籍してきたときに、登録名が「鈴木」から「鈴木啓」になることが伝えられると、「このチームに鈴木姓はワシ1人でええ。あっち(鈴木康)を他の名字に変えてくれんかのぉ」と言い放っている。

結局は「鈴木啓」で落ち着いたのだが、登録名変更によりスポーツニュースなどで「すずきけいし」とフルネームで呼ばれる機会が増えたため、後年には「名前を正しく覚えてもらえた」と好意的に話している。気に入らないことには直情的に反発し、言葉が激しくなることもたびたびであったが、そこに悪意はなかったのだろう。

入団当初の鈴木は、力任せの直球頼りでコントロールが安定せず、74年から近鉄監督になった西本幸雄がその点を叱責すると、これを不服とした鈴木は阪神監督の吉田義男に直接電話を入れてトレードを志願したという。

それでも西本がコントロールや配球を重視するよう指導を続けたことで、鈴木の成績は安定。それまでは与四球が年間100個を超えることもあったが、75年以降はシーズン与四球が40〜50個に半減し、72年から3年連続で4割台だった勝率も、以降は5割超えが当たり前になった。

こうしたことから西本を信頼するようになった鈴木は、78年に近鉄が阪急との〝藤井寺決戦〟に敗れプレーオフ進出を逃すと、「監督を辞めないでくれ。俺たちを見捨てないでください!」と絶叫。辞意をほのめかしていた西本を引き留めたという。

そうして翌年も引き続き西本の指揮下で戦った近鉄は、悲願のリーグ初優勝を達成。鈴木はエースとして活躍しただけでなく、名将を留任させたという意味でもチームに大きく貢献したのであった。
《文・脇本深八》

鈴木啓示
PROFILE●1947年9月28日、兵庫県出身。育英高からドラフト2位で66年に近鉄入団。昭和のパ・リーグを代表するエースとして活躍し、近鉄一筋の20年間にプロ野球歴代4位となる317勝を挙げた。引退後の93年から95年途中まで近鉄監督を務める。

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