(画像)Mike Orlov/Shutterstock
(画像)Mike Orlov/Shutterstock

竹原慎二「俺を見習え!」~心に響くトップアスリートの肉声『日本スポーツ名言録』――第75回

2000年代初頭に人気を博したテレビ番組『ガチンコ!』の企画「ファイトクラブ」シリーズにおいて、不良少年たちを広島弁でスパルタ指導する姿が印象的な竹原慎二。彼はプロボクサーとして歴史に名を刻むレジェンドだった。


日本人として初めてボクシングのミドル級世界王者(WBA)となった竹原慎二。ミドル級はプロボクシング興行の草創期に、重量級のヘビーと軽量級のライトの中間として設置されたもので、初代世界王者は伝説のボクサー、ジャック・デンプシー。ただし、中間の体重とはいうものの、あくまでも欧米人の体格を基準とした話である。


【関連】初代若乃花「人間、辛抱だ」~心に響くトップアスリートの肉声『日本スポーツ名言録』――第74回 ほか現在、ミドル級の契約体重は72・57㌔以下になるが、これは試合用に極限まで減量をしての数字。ほとんどの選手は平常時の体重が80㌔以上にも及ぶ。肥満ではないのにこの体重となると、日本人にとってはかなり希少な大柄で、当然、プロボクシングの世界においてもミドル級以上の選手層は薄い。そのため長きにわたり「ミドル以上の階級で世界王者になることは、日本人には不可能だ」といわれてきた。

万が一にも勝つ見込みはない

1995年12月19日、デビューから無敗の23連勝で竹原が世界王座に挑んだ際も、「日本人やアジア人を相手に勝ち続けたからといって、厳しい競争を勝ち上がってきた王者にかなうわけがない」との意見が大勢で、これが当時のボクシング界では〝常識〟だった。

東洋太平洋ミドル級王座を6度防衛し、WBA4位にランクされていた竹原だったが、このときの世界王者は104戦98勝の戦歴を誇り、プロアマを通じて1度もダウンした経験がないというホルヘ・カストロ(アルゼンチン)。そんな〝怪物〟を相手にして、日本人ミドル級選手のパンチ力では通用しないというのが大方の見解だったのだ。


王座戦の放送権を持っていたTBSも同様で、「万が一にも竹原が勝つことはないし、短時間で負ければ放送時間の穴埋めにも窮する」との判断から生中継を断念。代わってテレビ東京が、関東ローカルで深夜に録画放送することになった。


ファンの間でも竹原の王座奪取を期待する声はほとんど聞かれず、いくら世界戦であっても通常興行と同レベルの集客しか見込めないとの判断から、試合は東京・後楽園ホールでの開催となった。さらには王者のカストロまでもが「イージーな相手」だと言わんばかりに、来日後にステーキを頬張るなど余裕の振る舞いを見せていた。


しかし、竹原だけは違った。勝利に確証があったわけではなかろうが、それでも日の丸の鉢巻き姿でリングに上がると、カストロに向かって眼光鋭くメンチを切ってみせた。

社会の底辺から世界の頂点へ

中学時代の竹原は〝広島の粗大ゴミ〟と呼ばれるほどの不良少年だった。ケンカでは柔道技で相手を投げ飛ばし、病院送りにしたこともあったという。

不良として有名になりすぎたせいか、受験では「自分の名前さえ書ければ合格する」といわれた高校にも落ち、行くあてがなくなると暴走族に入った。


ちなみに、竹原はこの時期について「ただただ、迷惑をかけただけ」「本当に黒歴史で、めちゃめちゃ後悔してます。こんなの何もかっこよくないですから」と、反省ばかりを口にしている。


転機となったのは88年、16歳の夏のこと。とある因縁から地元ヤクザにシメられると、ちょうど同時期に中学の頃に失踪した父親が帰ってきた。


元ボクサーだった父親から「ケンカよりもルールのある世界で勝負してみろ」と勧められた竹原は、暴走族を辞めてプロを目指すことを決意。すぐに上京して、沖ボクシングジムに入門する。


当初はまったく練習についていけなかったというが、それでもへこたれることなく練習に打ち込んだ竹原は、みるみるうちに才能を開花させた。すると本格的な練習を始めてから1年もしないうちに、プロデビューを果たすことになる。


そこから連勝を続けて、たどりついた世界戦。3ラウンドに竹原が左ボディを放つと、王者カストロがリングにうずくまった。まさかの場面に観客だけでなく、テレビ解説を務める渡嘉敷勝男も叫び声を上げていた。


後半には王者に打ち込まれるシーンもあったが、それでも堂々と12ラウンドを戦い抜いた竹原は、3-0のフルマークで歴史的な判定勝ちを収めたのだった。


半年後の初防衛戦はウィリアム・ジョッピーにTKOで敗れ、その後に左目の網膜剥離が発覚して引退。世界王者としての在位期間が短かったために、ボクサー竹原の印象が薄い人も多いのだろう。「日本人ボクサー歴代最強」といった類いのランキングで、竹原の名が挙がることは少ない。


だが、竹原以降にミドル級以上で世界王者となった日本人は、ロンドン五輪の金メダリストで、2017年10月22日にWBA世界ミドル級王座を獲得した村田諒太しかいない。


所属ジムなどの助力により、王座までの道筋を丹念に整えられていた村田と比べ、誰も期待をしない中で王座を自力でつかみ取った竹原が、才能や能力で大きく劣ることは決してあるまい。


引退後に出演したテレビ番組『ガチンコ!』(TBS系)などでのタレント活動を通して、竹原は「おまえら弱い世界じゃ強いじゃろうが、強い世界じゃ下の下じゃ」「ケンカに強いだけが強さじゃない」「大人になったらいろんな強さを知る」「周囲の人たちに応援してもらえるような生き方をしろ」などと、若者に向けた言葉を発してきた。


粗大ゴミ呼ばわりされた社会の底辺から世界の頂点までを見てきた男が、自らの経験を踏まえて「俺を見習え!」と話す。その言葉は決して軽いものではない。
竹原慎二 PROFILE●1972年1月25日、広島県安芸郡出身。中学時代は柔道部に在籍。’88年にプロボクサーを目指して上京し、翌年17歳でプロデビュー。’95年に無敗のまま世界王座に初挑戦し、WBA世界ミドル級王座を獲得する。戦績25戦24勝(18KO)1敗。