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有森裕子「初めて自分で自分を褒めたいと思います」~心に響くトップアスリートの肉声『日本スポーツ名言録』――第73回

Pavel1964
(画像)Pavel1964/Shutterstock

五輪2大会連続でのメダル獲得という、日本女子陸上界初の快挙を成し遂げた女子マラソンの有森裕子。クールビューティーな見た目とは裏腹に、競技人生においてはアスリートとしての理想と現実の間で、常に苦闘を続けていた。

1992年バルセロナ五輪の女子マラソン競技で銀メダルを獲得した有森裕子。これは28年アムステルダム五輪の女子800メートルで同じく銀メダルを獲得した人見絹枝以来、実に64年ぶり2人目となる女子陸上の五輪メダルだった。

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もちろん、これは快挙には違いないが、今もより多くの人の心に残るのは、続くアトランタ五輪の銅メダルのほうだろう。感動とメダルの色は必ずしも比例するとは限らない。

バルセロナ後の有森は、肉体改造など新たな環境での練習を希望した。五輪で感じた弱点を強化することなしに、次の段階へは進めないとの信念があってのことだった。だが、所属する実業団チームはあくまでもチーム全体での練習を求め、個人練習を希望する有森に対しては「女王様気取りでわがまま」といった批判的な声も上がったという。

そんな軋轢の中で有森は足底筋膜炎を発症。手術のために入院したが、このときに「私は本当に走りたいのか」と、自分を見つめ直す機会を得たことがプラスに働いた。再び走ることへの意欲を持ち、96年開催のアトランタ五輪を目指すことになる。

有森は退院してすぐの95年8月に北海道マラソンに出場すると、ブランクを感じさせない走りを披露して大会記録で優勝。この一走で五輪の選考条件をすべてクリアし、再び女子マラソンの代表に決定した。

五輪代表選考をめぐるトラブル

この当時を振り返って有森は「人にちゃんと自分の言葉を聞いてもらうためには、過去の実績ではなく、今の明確な実績が必要でした」と話している。自分の信じたやり方を進めるため、また〝アスリートファースト〟の精神を全競技の関係者に広めていくためには、しっかりと結果を出すしかないと考えるようになっていたのだ。

当時の五輪代表選考はアスリートを苦しめることも多く、有森も大きな騒動に巻き込まれている。

90年1月の大阪国際女子マラソンで競技デビューした有森は、いきなり当時の初マラソン日本女子最高記録を樹立。翌91年1月の同大会ではさらに記録を更新して2位に入賞すると、同年8月の世界陸上東京大会でも4位入賞を果たした。

同じレースで日本人トップ、有森より上位の2位となった山下佐知子が、まずバルセロナ五輪代表に内定。有森も有力候補とされたが、この当時の日本陸上連盟は代表選考の基準を明確にしていなかった。

有森は代表入りを確実にするため、92年1月の大阪国際女子マラソンに出場する予定だったが、左足の故障のために欠場。すると、同大会に出場した新鋭の小鴨由水が日本記録を大幅に更新して優勝を果たし、さらに2位の松野明美も、これまでの有森の記録を上回る好タイムを残した。

これらの結果により、まず山下と小鴨が日本代表に決定し、残りの1枠を松野と有森が争うことになったのだが、世論は「私を選んでください!」と涙ながらに訴えた松野に同情的だった。最終的に実績と経験を理由に有森が選ばれると、この決定を行った日本陸連には批判が殺到することになる。そのため、有森は代表決定後の会見で一切笑顔を見せず、終始、顔をこわばらせていた。

頑張らない人にチャンスはない

当時、松野との比較から優等生的なイメージを持たれた有森だが、もともとは高校から陸上を始めたごく一般的な選手であり、「心の中では〝自分は才能がない。だからこそ人一倍やらないとだめなんだ〟という鞭を、ずっと打ち続けてきたような気がする」と話している。そのような自己評価と世間的な評価のズレは、有森の競技者人生を通じて重い負担となっていた。

アトランタ五輪の女子マラソン本番、有森は30キロ地点でスパートをかけ、2位集団から抜け出してトップを走るファツマ・ロバ(エチオピア)を追いかけたが、バルセロナ金のワレンティナ・エゴロワ(ロシア)に追い上げられ、最後は4位と6秒の僅差で辛くも銅メダルを獲得する。

「まぁメダルの色は銅かもしれませんけど…、終わってから、なんでもっと頑張れなかったんだろうと思うレースはしたくなかったし、今回は自分でそう思っていないし…、初めて自分で自分を褒めたいと思います」

ゴール後のインタビューで語った言葉は、「よくぞこの五輪の舞台に戻ってこられた」という素直な気持ちが溢れ出たものだった。また、涙ぐみながら途切れ途切れに話す姿は、それまで有森をエリート視してきた世間の評価を一変させることにもなった。

なお、この言葉については「自分で自分を褒めてあげたい」と誤用されることも多いが、有森はそれを嫌がっている。自分に厳しい有森からすると、「褒めてあげる」という自分自身を甘やかすようなニュアンスが気に入らないのだろう。

この後、有森はメダリストとして初めてプロ宣言し、スポンサーを募って米国へ拠点を移すことになる。自分のためだけではなく、後進のために新たな道を切り開く意味合いもあってのことだった。

「一生懸命頑張っていると、いろんな人がいろんなチャンスをくれます。でも、一生懸命頑張らない人には、何もチャンスは来ません」

自身の経験を踏まえてこのように話す有森は、2007年2月の東京マラソンを最後に競技者を引退してからも、アスリートの地位待遇向上のためさまざまな活動を続けている。
《文・脇本深八》

有森裕子
PROFILE●1966年12月17日生まれ、岡山県出身。就実高校、日本体育大学を経てリクルート入社。92年バルセロナ五輪の女子マラソンで日本女子初の銀メダル、96年アトランタ五輪でも銅メダルを獲得。日本におけるプロランナーの草分けでもある。

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